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復興G
:2013/09/06(金) 23:44:43 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
八十
「神想観それ自体の神想観」 「聖経読誦それ自体の聖経読誦」 「光明化運動それ自体の光明化運動」 である。手段、目的のためのものではない相(すがた)である。
神は目的、手段のための生活にはないのである。神はそのようには在(いま)し給わないからである。
神は如何に在(あ)り給うか。神は 「今」 すべてのすべてであり給うのである。生長の家人類光明化運動も 「今」 すべてのすべてなのである。純一無雑(じゅんいつむざつ)、純乎(じゅんこ)として純なる光明なる運動とは目的と手段超脱の 「今」 である。
運動方針を立てると言えども、その運動方針は 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きであり、一切死に切りの、真空妙有なる無限充足の輝きとしてあるのである。 「運動方針これ運動方針に非ず。これを運動方針という」 である。運動方針の一文字一文字は神であり、神の国そのものであり、無限充足の天国そのものなのである。
斯(か)くの如きが 「生長の家人類光明化運動」 の運動方針なるものなのである。それ自身がそれ自身でそれ自身を完了している 「今」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 のそのままの一字一字なのである。ただただ零なのである。ただただ一切なのである。ただただ○なのである。
黄檗(おうばく)禅師の 「衆について求めず、法について求めず、悟りについて求めず、ただただ礼拝することを為す」 との言葉が想い起こされるのである。
ただただが 「光明」 である。ただただが 「化」 である。ただただが 「運動」 である。ただただが神である。ただただが充足である。ただただなる無限充足なるものの自己展開としての運動である。
絶対の愛としての光明化運動とは、それみずからで成立している光明の相(すがた)であるから崩れることなき久遠そのものなる運動なのである。
「数これ数に非(あら)ず、是(これ)を数という」 ということは、数に非ざる消息なのである。数という形そのままに、それはみずからの消え切りの脱落であり、澄み切りであるとは目的、手段のための数ではないということである。目的、手段と見ゆるままに、目的、手段は 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切ってしまっている聖なる何かと出合っているところに 「今」 なる光明化運動は成り立っているのである。光明という光明のすがしさ、さやけさ、かそけさがここに満たされているのである。
数が数字が黄金色燦然と輝いているのである。 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 ということは、数の成仏ということなのである。
総裁谷口清超先生がその御著 『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読む』 の 「山水経の巻」 において、東山水上行(とうざんすいじょうぎょう)、西山常運歩(せいざんじょううんぼ)をお説きになられ、山も川も渓(たに)も水も空も自在に運歩している自在無碍(むげ)實相生命をお示しになって、教化の相(すがた)もこの運歩の相であるとお書きになっていられるのである。
この自在のお姿がご講習会のおすがたであったのである。会場も人もその心もすべては大光明實相生命の運歩であり、菩薩の雲集(うんじゅう)をそこに拝み給うて、斯(か)くお示しになられたことと拝察申し上げるのである。
「数は力」ではないのである。「数は神」 なのである。「数は渾(すべ)ての渾て」 なのである。「数は光り」 なのである。神でなく、渾ての渾てでなく、光でないものは「数」 ではないのである。(1998.9.18)
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