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web誌友会参考文献板

200「訊」:2014/12/17(水) 16:20:44 ID:???


『生命の實相』第三十八巻・8月23日頁より謹写――

 不満足さえも、またまことにありがたいことではある。不満足があるので、われわれは信仰に志し、真理に到達し、救われることができたのである。不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。
 
 陰極陽転の理は昭々として明らかである。資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。不足は増大の本である。窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。 


『人類無罪宣言』133頁より謹写――

罪を解放する道

 罪がなぜその姿を現象界の不幸として、具象化して現わすかといいますと、罪それ自身がその存在を主張するためではないのであります。罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」でありますから、理解の便宜上「包み」という字を当てはめて考えてください。「包み」が形にあらわしているのは、「包み」を開いて中の進物(実相)をただ「ありがとう」と受け取ってもらうためであって、「包み」そのもの「包装」そのものに執着してもらうためではありません。(中略)罪が形を顕わすのは、罪自身が自壊するためである。「包み」が形を顕わすのは「包み」自身がその結びのほどかれんがためである。病状が形をあらわすのは病自身が治らんためである。足が痺(しび)れたと気づく不快感は、足の痺れの治ろうとする時起こる――そのように罪が現象界に不幸としてその姿をあらわすのは罪それ自身が存在を主張するためではなく、「神の創造り給いし実相のあらわれんためである」といいうるのであります。
 
 以上の叙述で解明されましたごとく、「罪」が現実的不幸として客観化して現れるのは、罪自身がその存在権を主張するのではなく、神のみ業――すなわち神の創造り給いし完全なる実相のあらわれんためであるとしますと、「悔改める」すなわち心が「実相の方」へ完全に転回(コンヴァージョン)してしまいますと、さらに換言すれば「われ神の子なる実相」と「神の創造り給える実相浄土」とを直接体験で把握してしまいますと、罪はそのまま超越されてしまいまして、「包み」の模様はもう問題とならない。「包み」はその模様などに頓着なく解かれて捨てられてしまうのであります。


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