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202「訊」 2:2014/12/18(木) 10:41:04 ID:???

 ある日、福田さんが何でも思う通りになると云う話をしておりますと集りの中にいた、村田宗一さんと云われます方が、『先生思うだけでよいのですか、思う位ならば私にだって思える』と云うのだそうです。『本当に思うだけでよいのですね。思う位ならば、皆さん、それ位出来るではありませんか。自分は神の子必ず幸福になる、それだけでよいのですね。これ位ならば出來るじゃありませんか。さあ皆さん思いましょうよ』と申したそうです。(笑声)実際涙が出るほど、澄み切った素直さだと思うのです。先程導かれる者として及第することだけが大切だと申しましたが、これは完全にそこが及第しております。重味があります。その村上さんは永い間の風邪なのですが思えばよいと云われた通り、風邪は無いと思っていたら、そういう意味のことを思っていたら、その風邪が治ってしまったのです。御教を受けさえすればそこに結果がちゃんと現れる。だから力を入れずに、努力もせずに、本当に七つの灯台の点灯者の御言葉の開かれている、その中へすっと私達は入って行ったら、力を入れず努力もせず自分がすっかり変わってしまう。生長の家はそう云う救いであります。自力で励んで苦しみもだえて、やっと救われる救いではない。こちらの力の要らない救いであります。ここが生長の家の真面目であります。その辺には塩田が多く、村上さんは、塩浜の浜子と云う仕事をして居られた。浜子と云うのはどんな仕事か存じませんが、農村の小作人か、あるいは使用人の様な立場に当られるのかと思います。ある日、この村上さんが奥さんの代りに八百屋さんへ買物に行きますと、店頭に松茸がならべられてある。如何にもその松茸が美味しそうなので買って帰りたいと思われたのですが、値段が如何にも高い。これは駄目だと断念して帰られたのですが、その時、思う通りになると云う生長の家の話を思い出されて、松茸は食べられる松茸は食べられると思っていたそうです。何でも無いことですが素直にすーっとそのまま行じた処が尊いと思います。つまり御教の中に融(と)けこんだのですね。するとその翌々日とか翌々々日とか云いましたが、久しぶりに訪ねて来た友人がこれはお土産だと云って放り出したものを開けてみると、それが松茸なのです。やはり思う通りになったのです。それから思う通りになることがぼつぼつ出て来る。あまり有難いので鎮守さまにもお礼詣りに行ったのです。もう霜の来る頃の事でして、鎮守様の鳥居の前に一本の柿の木があって、真赤にすき透る程に熟した一箇の柿が梢についていて、実に美味そうな色をしている。それをみた時に、あれを食べたいなあと思われたそうです。しかし落したらべしゃんこにつぶれてしまうしと思って参詣を済ませて帰って来て、柿を仰いだ時に、又食べたいなあと思ったそうです。


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