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復興G
:2013/07/17(水) 10:35:04 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
二十八
姦淫の罪を犯したマグダラのマリアを石にて打ち殺そうとした群衆に向かってイエス・キリストは
「汝らの内、罪なき者まず石を擲(なげう)て」
と言い給いて、群衆が二人去り、二人去り、ついに一人も残らなかった。そこでマリアに
「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」
とイエスは言い給うたのであった。
役人たちがイエスを法に背いているとして捕らえようとしていたのである。マリアに対するイエスの見解を示せと迫ったのである。罪はないと言えば法に背いたことになり、罪ありと応えれば、自分の信仰に背いたことになるのである。この時イエスは黙して、ただ地面に何かを書いてい給うたということである。
聖書には何を書き給うていたかはたしか書かれていないと記憶する。尊師谷口雅春先生は戯曲 『イエスは十字架に架かり給わず』 の中では、 「大調和、大調和」 とお書きになったと描かれているのである。
大調和の 「大」 とは、神によってそうあることなのである。人間が自分で作ったものではなく、神の責任において、はじめのはじめから神と偕(とも)にあるもの、神そのものが 「大」 ということであり、したがって、万人に同時にあるものであり、はじめのはじめから在る以上は永遠に消えることのない相(すがた)が 「大」 ということなのである。
それ故 「大調和の神示」 は神によって、はじめのはじめから在りつづけている調和の相(すがた)を祝福した神示なのである。それ故聖経 『甘露の法雨』 を開けば、先ずはじめに 「招神歌」 が載せられているのである。即ち 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」 からはじまるものであり、生くるも、為すもすべて神によってであるところの大人生、大生活というものが示されているのである。そして、その後に 「大調和の神示」 が出て来るのである。生きとし生けるものが生かされていること、もの皆が自分で生きているのではないことが 「大調和」 なのである。
さて、イエスは 「汝らの内、罪なき者まず石を擲(なげう)て」 と言い給うた、その 「内」 とは、イエスみずから 「神の国は汝らの内にあり」 と言い給うた 「内」 であり、聖経 『甘露の法雨』 の 「 『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり」 と録(しる)されている 「内」 のことなのである。この 「内」 は生きとし生けるもの、もの皆すべてに拝まれている 「内」 なのである。群衆にもマリアにもある 「内」 なのである。
「内」 なる神の国には罪はありようがないのである。それ故、この罪なきものばかりがそこに立っていたのであり、そしてその罪なきものが罪を打ったのである。即ち
「罪は無い<」
と罪を打ち消したのである。そして、罪は無に帰したのである。その結果、罪なき状態が顕れたのである。この時全人類の罪は打たれて無に帰したのである。この時、人類の罪に対する贖(あがな)いの歴史は終わったのであった。
「われも汝を罪せじ」
と言ったのは、神がすべてを罪せじである故に、私もまた罪せじなのである。ただ単に自分のことを考えれば他人のことは言えないというようなものでは、結局は罪はゆるされていないのであり、罪はマリアにも群衆にもありつづけなのである。
そうではなく、本当に罪なき大調和なる内なるものがあったればこそ、その罪なき姿があらわれたのである。マリアにも群衆にもそれは同じであったのである。
<つづく>
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