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176復興G:2013/11/09(土) 13:26:08 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十五

   ヨハネは神の国を準備する役目としてこの世に出たから神の国は近づいたと言ったのだ。


 神は、神の国は永遠に近づくということは有り得ないのである。なぜならば、神と神の国は一度も神の子人間と離れたことはないからなのであり、はなれたことの無い渾(すべ)ての渾てなるものを神といい、神の国というのである。

 一体(ひとつ)であるものにおいて、近づくということは不可能なことなのである。その不可能なことを不可能ではないと想ってそれととり組むところに迷い、すなわち不自然が生ずるのである。有らざるものを有りと妄想するのが迷いであるからである。

 近づくことの反対は何であるか。それは遠ざかることではないのであって、天国ということにおいては、近づくことの反対は、内にあるということである。内とは、既に、はじめから、はなれずして實在しているという意味である。天国においては、近づくということほど遠く離れていることはないのである。

 それ故、感謝したら神があらわれる、ということは生長の家の實相の哲学においては、感謝すれば神が近づく、という意味ではないのであって、既に、内に、はじめのはじめからある神が、感謝となってあらわれ給うことを意味しているのである。あらわれるのは外からこちらの方に来るということではないのであって、こちらから、内側から、という意味なのである。

 それ故、感謝の神示であると言われている 「大調和の神示」 は、聖経 『甘露の法雨』 の経本においては、 「招神歌(かみよびうた)」 よりも後におかれているのであって、生きとし生けるものとして、神として生かされ、神がすべてを生き、為し給うことが歌われているのである。それ故、内より神があらわれ給いて、感謝を為し給うということがそのままのすがたなのである。

 また、四部経においては、愛行(あいぎょう)の神示とも云うべき 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 よりも 「招神歌(かみよびうた)」 は先におかれているのであって、神を迎えるための準備として愛行があるのではなく、神が内よりあらわれ給いて愛行を為し給うことが表現されているのである。

 それ故、愛行とは、愛すなわち神が行き給うという意味なのである。神が行くということは天国が行くということである。天国が行くということは無我が行くということである。

 み教えを実行するということも、実すなわち實在なる實相が行くということであり、實相すなわち神が行くということなのである。

 もしも、既に内にある神を観(み)ず、神に来ていただくための準備として行ずるならば、それは同じ行であっても、準備の行であり、神なき自我の行となり、神との間をちぢめるための、埋め合わせの行となり、感謝の湧きようがなく、感謝だけは自分でやらなければならないことになり、一方、自分の無いのが感謝であるから、準備の間は神が居給わないとなれば、永遠に自分が消えず、感謝にはあずかれず、神は西方(さいほう)極楽浄土よりも尚々遠くにはなれてしまうことになるのであって、この行は、同じ行であっても、釈尊が 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 と言われた無常の行となるのである。

 大聖師は 「愛行は空(むな)しからず」 と私たちのすがたを拝み給うているのである。既に、はじめから、内において、神である實在の實相を祝福されている吾等は幸いなるかな、である。(1998.11.2)


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