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152
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復興G
:2013/10/14(月) 10:24:59 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
百七
浄(きよ)め、 「無の門関」 の輝くはたらきが、住吉大御神(すみよしのおおみかみ)であり給い、肯定、創造の輝くはたらきが塩椎大御神(しおつちのおおみかみ)であり給い、すべてのすべてなることを輝き給うているのが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御すがたであり給うのである。
しかし、これは別々にある姿ではなく、これはひとつなるものの輝きであり、ひとつなること、すべてのすべてなることを体現され給うているのが天照らす、ということそのことなのである。
塩椎(しおつち)のはたらきとして大御神は 「吾れは高天原(たかあまはら)である。吾れは天之御中(あめのみなか)である。吾れは高御(たかみ)むすびである。吾れは神むすびである。吾れはウマシアシカビヒコジである。吾れは天之常立(あめのとこた)ちである。吾れは国之常立(くにのとこた)ちである。吾れは豊雲(とよくも)野である」 と鳴りひびき給い、
「吾れは實在である。吾れは龍宮海である。無限の智慧の海である。吾れは無限の愛の海である。吾れは無限の生命の海である。吾れは無限の供給の海である。吾れは無限のよろこびの海である。吾れは無限の調和の海である。吾れは龍宮である。吾れは如意宝珠(にょいほうじゅ)である。吾れは實相であり、渾(すべ)ての渾てである」 と鳴りひびき給うているのである。
神が神ご自身を観じ給い、鳴りひびき給うのが神想観である。
「無の門関」 の透過(とうか)がすべてのすべてである。「捨徳」 とは、捨てる徳であると同時に、徳を捨てるということである。
一切の把(つか)みを捨てることが、「無の門関」 の透過である。
一切である神を捨て、仏を捨て、實相を捨て、捨てるということも捨て、「無の門関」 をも捨てることが 「捨徳」 ということである。そこに肯定なる塩椎(しおつち)なるものがましますのである。
住吉(すみよし)の浄めのはたらきも 「ア、オ、ウ、エ、イ」 となって輝くとき、すでに塩椎(しおつち)のはたらきであり給うのであり、これらひとつのはたらきが、天照大御神の輝きそのものなのである。
「吾れは在りて在るものである」 とは塩椎のはたらきのひびきなのである。
更に塩椎なるものは、
「吾れはハイである。吾れは “ありがとう” である」
とひびき給い、
「吾れは無限のすがしさである。吾れは無限のさやけさである。吾れは無限の聖(きよ)けさである。吾れは無限の安けさである。吾れは無限のかそけさである。吾れは幽(ゆう)の幽である。吾れは無の無である」
と澄み切りであり給うことを肯定しているのが塩椎の御はたらきなのである。
この澄み切り、であることは住吉なるもののはたらきなのである。
これらすべては、ただただひとつなるもののはたらきなのである。
高天原も、身(みみ)を隠し給う七柱の独神(ひとりがみ)もイザナギの神も、イザナミの神も、天照大御神も、住吉大御神も塩椎大御神もすべてはひとつなのである。
ただただ 「無の門関」 を透過した、真空妙有(しんくうみょうう)、妙有實相、入龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうふかしぎ)の消息なのである。
神想観の 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 ことの荘厳行事を想うのである。その荘厳なるゆえんはただ一つ 「神の世界を神が想う」 という畏(かしこ)き消息にあるのである。(1998.10.15)
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