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69復興G:2013/08/14(水) 05:34:02 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十六

 「本もの」 と吾々はよく、この言葉を使わざるを得ない時があるものであるが、それはどのような時に使いたくなるのであるか。また 「この教えは深い」 とか 「この教えは崇(たか)い」 とかいう言葉が思わず出て来るのはどのような時なのであるか。ということはいつもいつも私の中で繰り返している想いである。

 それはどのような時に人は発するのであるかの研究は別として、 「本もの」 であるとか、 「深い」 とか 「崇い」 とかということは、限りもなく、自分もそうでありたいと願わずにはおれないことであるということだけははっきりとしているのである。

 生長の家のみ教えについて 「本もの」 「深い」 「崇い」 ということは自然に出て来る想いであり、谷口雅春先生を 「大聖師」 とお呼びすることが自然なことであることも、まことにうれしいことであるにちがいないのである。

 本もの、とは實在するものでなければならず、實相そのものであることであり、既にはじめのはじめから在るものということであるであろう。

 そして、それは、はじめのはじめから在りて在るものであるが故に、自分というものの要らないものであるであろう。

 つまり、自分というものの要らないもの、自分というものの消えているもの、はじめのはじめだけがすべてのすべてであるもの、自分の無いものこそ 「本もの」 ということなのである。

 「深い」 とか 「崇い」 とかということは、如何に、はじめのはじめから、神が渾(すべ)ての渾てであり、それ以外にあるものなきこと、自分の要らないこと、自分は無いということを今、ここに味わい得せしめ得るか否かということにかかっているのである。本ものとは今ここにあるところのものでなければならないのであり、今ここにないものを 「深い」 とか 「崇い」 とか呼ぶことも不自然なことであり、有り得ないことである。

 神が渾ての渾てであり、神のみ在(いま)すのであるから、自分が無いのが自然であり、天然であり、法然であり、当然である。この自然、天然、法然、当然が、本ものなのである。

 「本もの」 とは 「本(もと)もの」 ということである。本とは、はじめのはじめであり、 「素(もと)もの」 であり、 「素のまま」 であり、 「神のまま」 である。

 「神のまま」 は 「今のまま」 である。 「今」 とは 「久遠の今」 であり、 「今なる久遠」 ということであり、渾ての渾てということである。

 それ故、迦葉(かしょう)が釈尊より 「本もの」 のいのちを受けとった時、渾ての渾てを受けとったすがたであったのである。それ故、迦葉一人でよかったのである。

 それ故また、 「本もの」 と言った時、そこに渾ての渾てなるもの、一つも残さずして、世界を込めて 「それでよい」 「そのままでよい」 という、はっきりとした、割り切れたものをいのちが感じた時なのである。神は渾ての渾てなる 「本もの」 にましますが故に、お一人でよいのであり、それを独神(ひとりがみ)と呼び奉るのである。

 天皇は 「本もの」 にましまし、お一人でよいのであり、それを中心と呼び奉るのである。(1998.8.25)


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