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57復興G:2013/08/05(月) 07:29:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十七

 聖典 『生命の實相』 の完結したころまでは、 「練成会」 も 「組織」 も 「聖使命会」 という言葉も全く使われていないのである。勿論 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 もなかったのである。勿論、政治運動もなかったのである。

 その時、その時において、表現の仕方が異なって来るのは当然のことなのである。根本の教えは不変のものであっても、時代が変化すると変化してみ教えがそこに写し出されると言うことであろう。

 さて、 「聖使命菩薩讃偈」 には 「己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に、一切衆生を度(わた)さんと発願(ほつがん)修行する」 ところの菩薩のすがたが最上、最尊、甚深微妙(じんじんみみょう)と讃偈されているのである。

 自分が救われてから、他(ひと)を救うのではないのである。自分は救われていなくとも、他を救うことが運動の出発点とさえ想われて来たのである。自分が悟ってからではなく、他を先に悟らせる、ということである。

 しかし、 『生命の實相』 には、自分が先ず救われて、救われたとはどんな状態であるかが解らなければ、他(ひと)を救われた状態に導くことは出来ないのであって、めくらの手引きでは多勢を河に落としてしまうことになるのであり、生長の家の 「智慧の言葉」 に 「自分に深切であれ」 というのがあると、お説きになっていられるのである。

 さて、新しき世紀には、また新しき説き方というものが生み出される、ということは自然な流れであろう。

 その時代には、 「解っていないけれども伝える」 のではなく、神の子ははじめのはじめから完全であり、神そのものの相(すがた)であり、悟りそのものであり、救われていることそのものであるから、生長の家のみ教えと波長が合ってふれることが出来たのであり、解っているからこそ生長の家にふれることが出来たのであり、 『生命の實相』 が自分の中にあればこそ 『生命の實相』 にふれることが出来たのである。生長の家にふれるという運命さえ内なる、實相なるものが生み出したのである、という解釈から説いて行くということになって行くのではなかろうか。

 先ず頭で 『生命の實相』 を受け取り、それから胸のあたりで受けとめ、それから潜在意識の奥底で受けとり、いのちのどん底で実感して行くという順序は誰が決めたのであろうか。

 それは反対の順序であって、先ず、いのちのどん底にあるからこそ 『生命の實相』 なのであり、そのどん底にあるからこそ、それを讃えるために 『生命の實相』 があとから、その素晴らしさを映し出して呉れているのであるから、いのちのどん底のどん底なるものが先で、それが出て来て、最後に手で開いて頭で読むという姿が開花しているのである。

 チューリップが咲いているのを、もう一度球根にたたき込んで、もどさなければならないということは不自然なことである。それと同じことを生命の自然な花開きに対してもやってはならないのである。

 いのちのどん底のどん底とは、はじめのはじめということであり、神であり、實相ということである。實相を説いているのが生長の家であれば、解っているからこそふれられたのであり、どん底のどん底のいのちが先ずさきであって、聖典を開くということは、はじめのはじめなる、自分ではない神なるものの自己展開としてすべてはあるのであるという観方、讃え方で新しい人を迎えて行くという相(すがた)が新しい時代には展開されるのではなかろうか。

 解っているから教えに触れられたのであり、解っているから、運動をするのである。というよろこび方が基(もとい)になっての運動である。(2013.8.16)


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