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73復興G:2013/08/18(日) 06:44:45 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十

 「住吉大神宇宙を浄め給う」 というと言えども、住吉大御神も宇宙も 「吾が内なる神の国」 として、吾が内にあり給うのである。

 「高天原(たかあまはら)に神詰まり坐(ま)す」 と言えども、高天原も、神もすべて吾が内にあるのである。

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓いたまう」 と言えども、イザナギの命も筑紫の日向の光明遍照の實相の世界もすべてのすべては吾が内に在り給うのである。

 絶対なるもの、無限なるものが吾が内に在るのである。

 「絶対を吾が内に握っている」 というのが、まことの自分の自分なるものなのである。

 絶対無限なるものが吾が内にあると同時に、龍宮無限なる龍宮城の中に吾れが坐しているのである。

 神は吾が内に坐(ま)し坐すと同時に、その内なる神に抱かれているのが自分なのである。

 至大にして、至小同時現成實相妙有である。

 「神が私を生み給うたと同時に、私が神を生んだのである」 と言うものがまことの自分の自分なるものなのである。

「天地の創造(つく)り主(ぬし)にましまし、吾が生みのみ親に坐(ま)します神よ」 ということは天地の創造主であり、私を生んだところの、み親に坐します神よ、ということと同時に、天地の創造主にましまし、私が生んだところのみ親にまします神よ、ということなのである。

 親なる神を生んだのが妙有實相なる自分の自分なるものであるのである。これが妙々實相不可思議の境涯なのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 なる神想観において、 「龍宮城が近づいて来て、すっぽりと自分の中に入ってきて、そして、その龍宮城の中に自分が坐している」 と観ぜよ、とは、まことに入龍宮不可思議である。

 それ故、 「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照……」 と繰り返して唱えているのは、吾が全身は勿論のこと十方世界も自分なのであるということなのである。

 十方世界も吾れであり、吾が全身も吾れであるならば、吾れは渾(すべ)ての渾てであるということなのである。吾れが渾ての渾てであるということは、対立なきものであり、相対にあらざるものであるが故に、無我ということなのである。

 「私は無いのである」 と消えて、澄み切っているというよろこびは、渾ての渾てであるよろこびということなのである。吾れが渾ての渾てであるということは、対立なきものであり、相対にあらざるものであるが故に、無我ということなのである。 「私は無いのである」 と消えて、澄み切っているというよろこびは、渾ての渾てであるよろこびであったのである。

 まさしく、無我ということが無限ということであり、無限ということが無我ということであるとはこのような中身を言っていたのである。

 「すべてを放(はな)ったとき、全實在宇宙は掌の上に乗る」 と大聖師がお示し下さっているということは、全存在、すべてのすべては手の内にあること、即ち、吾が内にあることを表現されているのであると拝察させて頂くのである。

 放つとは如何なることであるか。自分の要らない、はじめのはじめ、既にあるもの、即ち内なるものを受くることなのである。自分がこうした、ああしたということの全く要らない、自分そのものの要らない、はじめのはじめを受くることである。

 自分が為したという過去の成績という外を無しとして、内のみ渾ての渾てとして、今、ここに、はじめのはじめを受くることなのである。放つということは、はじめに帰るということなのである。はじめのはじめなるものが、はじめのはじめに帰ることが放つということなのである。(1998.8.29)


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