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98復興G:2013/09/07(土) 22:07:29 ID:AB6RqYXc

>>96 谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より謹写 つづき>

    “無限” と “有限” との自己同一

 さて、 “永遠の生命(いのち)” が “今” “ここ” に生きているという “無限” と “有限” との自己同一、 “永遠” と “今” との自己同一を自覚しなければ、現象的には有限のいのちしか生きることのできない自分が “今、ここ” に “永遠の生命” を生きているということがわからないのであります。つまり、キリストが 「我はアブラハムの生れぬ前(さき)よりある者なり」 といったことや、釈尊(しゃくそん)が 「我れは五百塵点劫(じんてんこう)以前から生き通している自分だ」 といったことがわからないのであります。(中略)

   現象時間は存在しない、従って非存在の現象時間の中にある事物も存在しない

 (中略)

    “今” を生かせということ (過去の業を消す)

 私たちが 「“今” を生かせ」 といったり、或は又 「“今” に生きる」 といったりするその “今” というのは、そのような現象時間の流れの中にある “現在” というようなものを上手に生きようという簡単な意味じゃないのであって、その過去・現在・未来の一切がいまここに把(つか)まれているところの “久遠即今(くおんそくいま)” の生命(いのち)を生きよ であるのです。

 「これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる」

 と聖経に書かれているところの、 “無窮” が常にあるところの “今” の一点であるのです。

 現象時間の流れの中で “無窮” を生きようと思うと、肉体の寿命は無窮には生きられないけれども、 “今” の一点に “久遠” の絶対時間を生きると、過去も現在も未来も今ここに一つに把(つか)まれてしまう、ということになるのであります。

 そうすると、吾々は今ここの自己の内に過去も現在も未来も把んでいるから、過現未が自分の掌中にあるのです。普通、過去は変化することが出来ないというけれども、過去も変化できる。そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業(ごう)を消すことが出来るということがわかる。

 未来は無論、これから起るのだから変化できる。現象の流れの中にあるものは、全部こうして自分の内に “心のハンドル” をもって把(つか)んでいるんですから、吾々が欲(ほっ)して変化できぬものはない。

 吾々は、現象に対しては幻術師の立場にある。現象は仮(けげん)であって、心の現すところであるから、心によって自由に変化することが出来るのであります。

 さて、この 「 “今” を生きよ」 という “今” は、唯今説明いたしましたように、過去・現在・未来という現象時間の流れのうちの “現在” を生きよというような浅い意味での “今” ではないのであります。過去・現在・未来のすべての時間がその内に握られており、そこから過去・現在・未来が発して来るところの “本源の今”、 “源の今” “永遠を内に含む今” を自己の掌中に握ることであります。この “永遠を内に含む今” が “永遠の今” 、 “今即久遠(いまそくくおん)”、 “久遠即今”、 “未発の中(ちゅう)” というものなんです。

    “未発の中” に入ること

 何事でも本源に還って、本源の叡智(えいち)を受けてくることにしますと、する事為(な)す事、急所に中(あた)るのであります。この本源の中心を儒教では “未発の中(ちゅう)” といった。

 “未発の中” というのは、これは支那の 『中庸(ちゅうよう)』 という古書の中に書かれているところの 「喜怒哀楽(きどあいらく)未だ発せざるを “中(ちゅう)” という、発して節(せつ)に当る、これを “和” という」 と表現されているところの、あの一切のものが “未(いま)だ発せざる” 根元の 「中」、いまだ陰陽に剖判(ぼうはん)せざる未発の本源世界ということを意味するのであります。この本源の未発の “絶対無” (有無相対の無ではない) の中へ吾々が入っていくのが、神想観の 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 ということなんです。
<つづく>


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