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復興G
:2013/06/26(水) 15:35:19 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
榎 本 恵 吾
五
例えば組織の問題であるか何の問題であるとかを問わず、問題そのもの、現象そのものを “無し” として解決しているのが生長の家なのである。
“現象なし” “不完全なし” と全現象宇宙を斬り捨て、全現象を “無し” と完全に現象を処理し終えているのが生長の家なのである。
この完璧なる解決の上に立って人類光明化運動が発進しているのである。それ故、あらゆる問題にあたっては、教えの中そのものに求めよ、ということなのであり、それは充分に用意されてはじまっているということなのである。晴れ渡って進んでいるのが生長の家人類光明化運動なのである。
“現象処埋が大切” という言葉は、針の先ほども現象を相手とし、それを認めての言葉ではないのであって、全現象宇宙を “無し” と消し給い、処理し終えて “こと終われり” なのが生長の家なのである。そしてそこに一点の曇りなき、神そのもの、實在そのものとしての価値創造としての光明化運動が純粋に持続されているのである。それが 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出でましぬ」 ということなのである。
ありとしあらゆるものが、今、天照大御神そのものとして拝まれているのが全存在であり、天照大御神が天照大御神しているのが、光明化運動の 「光明」 ということなのである。
「光明とは何か」
それは、はじめのはじめより、ありとしあらゆるものとして、平等に、すでに、今あるところの “よろこばしきさやけさ” ということである。
光りとは神であり、神はすべてのすべてであり、神の外にあるものなしであり給えば、光りははじめからすべてのすべてなのである。その光りなるものの存在には、新しい者も古い者もないのである。
この共通なるもの、しかもはじめからあり、完全なるものがあるということが 「伝わる」 ということの基なのである。
それ故、あまりにも、新しい人とか外の人とかということをクッキリとしすぎて、相対的な運動になっては、勿体ないことになるのである。
「神には、新しい人も、古い人もないのですよ」
「神には、教えの内に居る人も外に居る人もないのですよ」
「もしも神がいるとすれば、『信仰をしたものは生かすが、信仰をしないものは生かさない』 ということは不自然なことで、そんな神に対しては 『何故、神は、平等に信仰をするように生んでおかなかったのか!!』 という不平と裁きしか生まれないのです。生長の家が感謝の教えであるといわれていますが、それは、不平、裁きの起こらない神を発見しましたよ、ということであります」
ということが、表現はその時、その人によって様々に展開されていくのであろうが、説法、表現の基礎になっていると拝察されて来るのである。
あらゆることの前に 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神」 と感謝して唱えるようになっていたり、また 『生命の實相』 の冒頭に 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」という言葉があり、また谷口清超先生の第一論文である 『文化の本源としての神想観』 の中に、「宗教は要するに、そのまま仏であり、神であることを知らせることである」 という意味のお言葉があるのは、内と外とを分けず、新しいものと古いものとを分けない拝みに立脚していることが、そこに尊師と基を一つにして表現されていると拝察されて来るのである。(1998.7.5)
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