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22復興G:2013/07/07(日) 03:29:41 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十八

 人間は新しさを求めるということは、それ自体が創造、生長が人間の本質であることをあらわしているのである。

 善い意味において、人間は自分も驚きたいのであり、またすべての人々に驚きを与えたいのである。ロマン派というのも常に形を破って、古い形式を超えよう超えようとしているかに見えるのである。

 ベートーヴェンの音楽を胎児に聴かせようと私が想わなかったのは、きっとそこに、どこかでスキあらば形を破って人を驚かせようという気配が、どんなに静かで、落ち着いた、安定したものを表現しようとしている部分についてもそれを感じていたからなのではないかと想われるのである。

 人はこの驚かせたいという願いをつきつめて行けば、神を驚かせたいのである。神に驚いて感動してもらいたいということになるのである。

 しかしながら、全知全能の神が、今さら驚いて感動するなどということがあってよいものだろうか。

 驚いてよいのである。神のご性質のうちで最初に来るのが、この驚き感動する無限の能力であるということなのである。それ故に、神は創造そのものであり、感動そのものであり、感謝そのものであり給うということが出来るのである。

 人間の為すことの一つ一つが神にとって、この世のどこにもなかった全く新しいことの誕生の連続なのである。一呼吸といえどもすべて、全く新しい出来ごとなのである。

 それ故、神の子人間の為すすべては、ペンを持つことであろうと、一文字を書くことであろうと、愛行のために歩く一歩一歩だろうと、すべてこの世のどこにも存在しなかった全く新しいことの誕生であって、神すなわち全宇宙を驚かせる内容をもって生まれているのであって、決して虚(むな)しいことではあり得ないのである。神すなわち全宇宙が知り給うところの出来ごとなのである。 「さすが吾が生みの子よ」 と讃えられ、 「さすが吾が教え子よ」 と尊師に讃えられ、 「さすがわが子よ」 と両親にたたえられ、天地万物一切にあがめられ感謝され、讃嘆されているのが、神の一人子人間の今、今、今なのである。神の無限のおどろきという極まりなき厳かさの内容をもって満たされているのが人間の生活の一歩一歩なのである。

 例えば、芸術家が腕を磨く過程としての練習と見ゆるその一コマ一コマも無限荘厳華厳なる尊さの、純粋なる、完成なるものの、神のおどろきの内容となっているのである。まして、人類光明化運動の内容においてをやである。

 いのちには練習というものはなく、限りもなき尊さ、完成なるもの、本番なるものの今、今、今があるのみなのである。草の一本にしても、花にしても、木の芽を出した姿にも、そこには練習でやっているものは一つもないのである。

 神が天地創造にあたって、リハーサルをされ給うたということは有り得るだろうか。神の子の創造もまた、神の天地創造の世嗣ぎとしてあるのである。今、今、今、絶対なるもの、完成なるものの歩みがあるのみなのである。

 神想観練習というのがあるが、祈りには練習はないのである。祈りとは命が宣べることであり、いのちは神であるからである。

 人類光明化運動練習というものは無いのである。荘厳なる今、今、今があるのみである。その荘厳なる今、今、今を光明というのである。(1998.7.18)


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