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170復興G:2013/11/01(金) 12:26:12 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十

   そして神を求め神を掴(つか)もうと思ってそれを探し求めていたのです。どうしたらそれを掴めるか、それがわたしの課題であったのです。


 そして、神は掴む方向には居給わなかったのである。生かされている、ということにあったのである。それ故、生長の家の教えは感謝の教えであると言われているのである。生きとし生けるものを生かし給うのが神であり給うたのである。

 やがてその神を発見された時、「招神歌(かみよびうた)」 が生まれたのである。すなわち、その第一首は、

   生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)
   元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え。

 と歌われているのである。

 神を知ることは出来なくとも、神を掴むことは出来なくとも、生かされていたことは厳然としているのである。

 それが實相である。知る知らない、掴む掴まないを超えているのである。信じる信じないを超え、あらゆることを超えて無条件ということが 「生きとし生けるものを」 ということなのである。

 そのような神を神の子なる實相は知っているのである。それは 知っているからこそ求めるのである ということではないのである。知っている神の子の實相だけでよい、のである。見渡すかぎり 知っている神の子があるばかりなのである。

 それが 神と一体(ひとつ)であるということなのである。

 神を知らない時は一度もなかったのである、ということをよろこんだのが、因縁を超えたことであり、悟ったことであった――それが大聖師谷口雅春先生であったのである。

 「私はまだ幼い稚(おさな)い時から神が好きであった」

とは、幼な児の心、稚い子供の心を言っているのである。

 「汝、幼な児の如くならずば神の国を見ること能わず」

 とイエス・キリストは宣(の)り給うているのである。すべての人間はみな幼な児なのである。それ故、万人は神を好きなのである。

 幼な児とは生れたそのままを意味しているのである。
 幼な児の如くならなければ」 とは永遠の憧(あこが)れの心境ではないのである。「幼な児の心」 はここに見よ、彼処(かしこ)に見よ、というが如くにはいないのである。今ここに既に、万人のうちに、生きとし生けるもののすがたそのままに幼な児の心なのである。

 万人の中の 「幼な児」 なる實相に呼びかけられ、拝まれたのが 「私は幼い時から……」 という言葉であるのである。その “幼い” ということは、生まれたそのままなる 「實相なるもの」 に語りかけられた言葉なのである。

 それ故、全人類の中で大聖師谷口雅春先生だけが生長の家であり、すべては外の人であった時に、語りかけられたお言葉がいきなり 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば……」 というお言葉であったのである。万人の實相、すなわち 「幼な児なるもの」 に語りかけられているのである。

 「わたしは幼い稚(おさな)い時から……」 というお言葉のなんという自然なことよ。なんという 人間すべてに語りかけるのにふさわしいひびきであることよ。なんという そのままであることよ。その、そのままのすがたが實相なのである。

 この、そのままが流れ満ち満ちているが故に、大聖師の 『自伝篇』 の一行目から、啓示を受けられるまでのすべての相(すがた)がそのままに聖なる光りであり、この本を聖典と呼ばずにはいられないのである。(1998.10.28)


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