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124復興G:2013/09/25(水) 11:20:14 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十三

 生長の家人類光明化運動の姿はそのまま、「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 の姿なのである。光明燦然(こうみょうさんぜん)として立ち給う、尽十方無礙(じんじっぽうむげ)なるものの姿なのである。

 それは人の手をもて、行いをもて、それらを組み合わせて作り出したるものではないのである。 「光明化」 と言えども、暗(やみ)を相手にそれを光りに変化せしめて行くというものではなく、暗を知らない光明がただただ燦然として広まるということがあるのみなのである。

 それはちょうど 『般若心経(はんにゃしんぎょう)』 において、これは、 「空々、無々」 の言葉ではなく、先ずはじめに観自在菩薩(かんじざいぼさつ)が燦然として登場されて、 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」 と照見(しょうけん)され給うのであり、その照見の光りの広がり、展開として 『般若心経』 の言葉がつづられているのと同じすがたなのである。

 それ故、このお経は 「五蘊皆空」 と現象を否定して實相なる光りを迎えるためのものではなく、光りそのものなる観自在菩薩なる實相そのものの光りの展開としてこのお経の文字が生まれているということであって、中身としては、

 「物質は無かったのだ!!」

 「現象は無かったのだ!!」

 というよろこびの光りの展開として、光りのみが満ち満ちているお経となっているのである。どこまでも、先ず光りが立っているのが先なのである。

 イエス・キリストは 「吾が国は此の世の国にあらず」 と宣(の)り給うているのである。

 このお言葉の 「此の世」 というのは現象世界のことであるが、このお言葉は 「現象は無い」 「此の世は無い」 ということが示されている言葉のようにもきこえるのであるが、実は 「吾が国は」 という 「吾が国」 すなわち 「實相なる国」 が自分そのものであることの悦びが先ずあって、その實相なるものの悦びの光りのひろがりとして、 「此の世の国に非ず」 という言葉が生まれているのである。

 それ故、「吾が国は此の世の国にあらず」 とは、「此の世の国」 すなわち現象の不完全なる国を相手としたものではなく、キリストなる實在なるいのちが燦然として立っている姿であって、『般若心経』 において、観自在菩薩が實在そのものとして、光りとして立ち給うている姿と重なるものであるのである。

 このことを延長してみれば、大聖師谷口雅春先生のお聴きになったおコトバ、

 「今起て!!」

 という天からの声は、

 「今なる汝よ起て!!」

 ということであり、 「今」 そのものである大聖師なるものに語られ、 「今」 なる大聖師が立ち給うたという姿として拝察せられて来るのである。そして、大聖師と生長の家人類光明化運動なるものとが 「久遠の今」 において、一つなるものとして拝察されて来るのである。

 「生長の家人類光明化運動」 なるものとして立ち給える生長の家大神のお姿。

 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」 と照見(しょうけん)し給う観自在菩薩(かんじざいぼさつ)のお姿。

 「吾が国」 を悦び給うキリストなるもののお姿。

 久遠の今なる大聖師なるものにおいて一つに輝いているお姿であり、万教帰一(ばんきょうきいつ)なるものの立ち給うお姿なのである。万教帰一の 「帰一」 なるものの消息を想うのである。(1998.10.1)


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