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145復興G:2013/10/09(水) 10:01:32 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 つづき>

      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

     二

 凡(すべ)ての人間は、過去に於ても現在に於ても又未来に於ても、同様の考え方をする。ただ、それを表現する感覚(センス)は非常に変っている。それはあたかも、裸の人間のみをみては、過去の人と現代の人と大差はないが、衣服をつけた人をみると、過去の人と現代の人と大変異なっているようなものである。

 しかしながら、古きものは常に新しきものに連続しているのであるから、そこに何らかの共通点を見出すことが出来る。まして、裸のままの人間そのものの心は過去・現在・未来を問わず、永久に不変である。それ故に吾々は古典の美にうたれ、古き教えの真実に心打たれるのである。

 釈迦は世の中の生老病死(しょう ろう びょう し)の四苦を見て、現世をいとい、何とかして解脱(げだつ)に達せんとして苦行林(くぎょうりん)に入り六年間の苦行をした。キリストは荒野にて四十日四十夜の断食をして飢えたもうた。彼らはただ、ばくぜんと苦行したのではなく、「現在の自分」 というものに満足出来ず、何ものかによって現在の苦しみから脱却せんと希(こいねが)ったのである。

 釈迦に於ても、かつては苦しみがあり、キリストに於てもなやみがあった。釈迦やキリストが偉大であるのは、何もかかる悩みそれ自体によるのではなく、その苦しみを超克した偉大なる彼らの人間性(即ち神性の顕現)によるのである。

 かくの如く人間はすべてなやむ。しかし、人間が悩む故にその悩みが貴いと考えるのは馬鹿げた事だ。豚は悩まないが人間は悩む、悩みなき豚となるより、悩み多き人間となる方が貴いと言う人がいるが、それは勿論その程度の発達状態の人間にとっては、悩まざる痴呆(ちほう)より悩み多きインテリである事の方が好ましいにちがいない。

 しかし、吾々の要求している 「悩みなき人間」 の水準は、さらにその上にある。悩むことを知った人間が、更に昇華して、悩みなき神の子たる人間にまで到達する事を求めているのである。釈迦やキリストが到達した(或はある程度到達した)境地を、万人に求めているのが、吾々の精神運動である。

 諸君はそれを至難だと思うか。それは決して考えられている程に至難ではない。それは苦行(くぎょう)ではなく楽行(らくぎょう)である。それ以外の道が苦行であるのだ。吾々が、彼ら先達の道をふみしめ歩み行う時、それは安らかな道であるが、吾々が、彼らの切り開いたと同じ密林を自分の力で切り開いて行こうと思う時、至難道となるのである。

 人間は、だれでも、好むと好まざるとにかかわらず、何らかの形で神を自覚せしめられ、神の道を歩まぎるを得ない様に指導されるものだ。これが摂理であり、その摂理が 「悩み」 という形で人間に感得される。人間は本能的に 「悩み」 をさけ、「悩まざる道」 へと志向する。それは本能的にである。豚が本能的にトウガラシの辛さをさける如くに、人間は本能的に悩みをさける。それ故、悩みそのものが人間的であると考えるのは真理を知らざる者と言うべきであろう。人間の本性は永遠に 「悩まざる者」 である。

 <つづく>


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