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185復興G:2013/12/02(月) 11:08:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十三

 今朝の早朝行事の先導で、聖経 『甘露の法雨』 の読誦(とくじゅ)において、内より湧き出でた明るい想いだった。

 聖経を誦(あ)げる前に、宝蔵神社に向かっての礼拝の後、この聖経 『甘露の法雨』 を、日ごろ先祖を護り、導き給う、本尊神霊なる生長の家大神、大国主大神、観世音菩薩、地蔵大菩薩、阿弥陀如来……に感謝し奉りて誦げる、という主旨の 「祝詞」 を拝読してから、聖経が読誦されるのである。

 今朝、この 「本尊神」 は、しかし、自分の内にましますのである、と想った時、わが内に大きな大きな、黄金色の合掌があらわれたのである。

 それは、感謝して聖経を拝読してくれる人々への感謝の合掌であると同時に、全存在を如意宝珠(にょいほうじゅ)としてその合掌の内に持されて、限りない 「生かす力」 をもって生かし給うているすがたであった。

 そして、その時、総裁谷口清超先生の 「神想観は、神の世界を神が想い給うのである」 というお言葉を想い出したのである。

 すると、自分はどこにもなく、ただよろこびだけがあって、自分は全く要(い)らなく、ただただ神の眼を以て神が観給い、神が神の合掌で神のつくり給える實在なる姿を観じ、拝し給うのである、という安らぎ、全托の想いが私を満たしたのである。

 それから後、神癒祈願の人型を合掌にはさんだ時、自分ではないもう一つの輝く厳かさで大きな合掌がその一枚一枚の人型をはさんで祝福礼拝して下さっているのを感じたのである。しかも、すでに、その人型は人型でなく、如意宝珠となって、合掌の、掌と掌の間に輝いて存在している感じとなっていったのである。その感じは今も、祈願を終えたあともそれがつづいているのである。

 神が人型を観給うように、私もそれを感じていたのではないかと想うのである。祈りも神が為し給うのであった。

 「……し給え」 と神に祈るとは、神でないものが神に求めているように、たしかに見えるのであるが、そうではなかったのだ。「……したまえ」 とねがうことも神が神に語りかけていたもうたのであった。

 それ故に 「……せんと楽(ねが)わば」 ということばが仏典にあるのであると想えて来たのである。祈りもねがいも神が為し給うのであれば、神はよろこびそのもの、楽しさそのものであり給うのであるから、「ねがい」 は、楽しさそのものがしていることなのであった。

 「……せん」 と欲すること、ねがうことは、楽しさ、よろこばしさから来ている姿であったのである。

 それ故、「ねがう」 ことは、楽しさが楽しさに、よろこびがよろこびにねがっていたことであったのである。

 「願(がん)なき行(ぎょう)は仏(ほとけ)の魔事(まじ)なり」 とは、願(楽<ねがい>)神なき、仏なきものは魔事であることはきわめて自然なことと想われるのである。

 それ故にまた、「地上天国建設を楽(ねが)う」 こと、「人類光明化運動の展開を楽(ねが)う」 ことは、よろこびそのものがねがっていることであったのであり、楽そのものがねがっていることであったのである。

 「よろこびの人類光明化運動」 なるものの明るさということを想わされるのである。(1998.11.10)


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