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復興G
:2013/11/01(金) 11:00:40 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
百十九
諸君、わたしは生まれて間もない幼い稚(おさな)い時から神が好きであった。
「諸君」 とは、舞台上の人物だけではなく、観衆全部に向かって語られているのである。
天地一切万物に向かって、「今すべての病人は起つことが出来る」 というその 「すべて」 に向かって語りかけられ、拝みかけられている言葉であるのである。
山川草木(さんせんそうもく)国土、有情(うじょう)なるもの非情(ひじょう)なるものに向かっての拝み、天地一切のものへの感謝、礼拝、祝福として語られているのであり、 『甘露の法雨』 なるものの降りそそぎとしてここに鳴り出した言葉なのである。
「私は幼い稚い時から神が好きであった」 ということは、万人、万物の神聖にして、神性なるものへの拝みなのである。
すべてのものははじめから神が好きなのである、神を嫌いなものなど一人もいないのだ、ということである。神と人とが一つである實相に帰っているものから観ればすべては、好き嫌いを超えて、神と人とは一体(ひとつ)であるのである。それが、今ここにある、神と神の国のそのままであり、人間のそのままの相(すがた)なのである。
万人、万物は實相なる今ここにおいて、ひとつであり、ひとつなるもの、はじめのはじめなるものが展開して、万人万物、天地一切となっているのである。自分自身のいのちが展開して天地一切となっているのである。
そのひとつなる はじめに帰り、はじめなるものの展開として、鳴りひびきとして一切のコトバは発せられているのである。発しながらもそこに一即多、多即一としてひとつなのである。
それ故に、コトバそのものの中に天地一切万物がひとつなるそのままに存在しているのである。一語一切語である。一語以て天地を蔽(おお)う とはこのことである。
この ひとつ なるところに立つことが、まことの 「起つ」 ことなのである。その意味における 「今すべての病人は起つことが出来るのである」 とのみコトバが天降(あまくだ)っているのである。
しかも菩薩(ぼさつ)は三界(さんがい)に身を現さずであり、すがたも、言葉も、説法も消え切りの、澄み切りの、よろこびの聖なる輝きそのものなのである。
イエスは、はじめのはじめから自分というものを十字架にかけておられ給うたのである。それ故に、物質の十字架そのものも、十字架にかけ終わりのところから、イエスの説法ははじまっていたのである。
大きくこの世全体を、全存在を十字架にかけて、抹殺(まっさつ)して、今そのまま、このままに神であり、神の国であり、神の子であり給うたのである。
一切は 「今ここ」 からはじまるのである。 「天地(あめつち)のはじめは今をはじめとする理(ことわり)あり」 なのである。一切はこのままからはじまるのである。それがそのままなのである。
今ここ、このまま、そのままである。 「そのままの展開」 が生長の家人類光明化運動であったのである。そのままは生命(いのち)それ自身の 「私は無いのです」 とのみずからの消え切り、澄み切りの、よろこびの聖なる輝きを輝く光栄に満ちているのである。
「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 と 「『生長の家』 信徒行持要目(しんとぎょうじようもく)」 には解説されているのである。
そのままの外には何ものもないのである。そのままが渾(すべ)ての渾てなのである。(1998.10.27)
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