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157復興G:2013/10/18(金) 21:01:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十

 「二千年前、キリストが 『汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ』 と云う唯(ただ)一語で、遠隔の地にいる病人を癒やした其の真理が、すべての人類に開顕(かいけん)される時期が来たのである」

 と 「神示」 はつづいているのである。

 「二千年前」 とは、肉体イエスが生まれたという、今より二千年前ということであると同時に、二千年以前なるもの、ということ、「吾れはアブラハムの生まれぬ前(さき)よりあるなり」 とみずから言い給うたキリストなるものとしてのキリストを意味しているのである。

 まことのBC、すなわち肉体イエス以前、久遠の以前なるもののことが、「二千年前」 ということなのである。そのキリストなるものは、コトバそのものであり、コトバがキリストなるものであり、神であり、渾(すべ)ての渾てなのである。

 その神なる、キリストなる、コトバなるもの、渾ての渾てなるものとして、燦然(さんぜん)と輝いて 「汝の信仰によって、汝の信ずる如くなれ」 なるコトバが今ここに鳴り鳴りつづいているのである。その真理なるもの、コトバなるもの、光りなるものは、すべての人類に、天地の万物に、そしてすべての時に、久遠の昔より、今に至るまでに、顕(あらわ)れつづけであったのである。

 それ故にこそ、顕れない時はないからこそ、 「開顕される時が来た」 と言えるのである。

 すべての時が、開顕される時なのである。すべての時とは無時の時であり、時自身の消え切りであり、「今」 ということである。「今」 とは開顕なるものの純粋なる持続そのものをいうのである。

 開顕されるとは、自(おの)ずから、自(みずか)ら開顕されるということである。真理とは實相であり、神である。神、實相なるものは、みずから開顕する徳を備えているのである。

 真理は真理みずからが、みずからを証(あか)しするのである。

 二千年以前なるもの、キリストなるものは、真理そのものなのである。そのコトバもまた真理そのものなのである。

 「汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ」 とのコトバそのものが真理そのものであり、いのちそのものであり、天国そのものであり、神そのものであり、開顕そのものであり、成就そのものなのである。神は渾ての渾てであり、コトバは渾ての渾てなのである。

 これすべて、吾が内なる神 御自(おんみずか)らが、想い給い、観(かん)じ給い、コトバし給うていることなのである。これを 「入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐう ゆうさいでん)にての神想観に念ずる言葉」 で言えば 「われ今、塩椎大神(しおつちのおおかみ)に導かれて龍宮海に入る」 というのである。

 二千年前とは、 「久遠の昔」 すなわち 「久遠の今」 なる、神想観の消息なのである。

 神想観は實相界への直入(じきにゅう)であり、入龍宮であり、時空超脱(じくう ちょうだつ)であり、因縁(いんねん)の度脱(どだつ)である。

 因縁の度脱こそ、まことの 「起つ」 ということであり、あらゆる病(やまい)の癒(いや)しそのものであり、癒しなるものそのものなのである。

 因縁の度脱とは 「今」 であり、 「今」 のみが起つことのすべてのすべてなのである。 「今」 が 「起つ」 そのものなのである。(1998.10.18)


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