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188復興G:2013/12/03(火) 10:05:04 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十六

 神想観の中で 「私は無いんだよ」 と宣(の)り給いて、みずからの消え切りであり、澄み切りの聖なる聖なる大聖師が、すべてを救い給うたことについて、「それをやったのが私だよ」 と宣り給うたのであった。それ故、それを宣り給うたのは神であり給うたのである。「見よ、吾れすでに天地を新たならしめたのである」 との 「神示」 のコトバと同じ相(すがた)がそこにあったのである。神のみがそこに在して、渾(すべ)ての渾てであり給うたのである。

  「時が来た。」

 とは、その時であったのである。そして全宇宙が 「今」 そのまま起ったのであった。全宇宙を吾が身体としてそこに起ち給うた大聖師であり給い、神であり給うたのである。それはそこに、そのまま生長の家人類光明化運動の起った相(すがた)であったのである。

 「こと終われり」 「こと完成せり」 が生長の家人類光明化運動の中身なのである。「こと終われり」 「こと完成せり」 が運為(うんい)、展開しているのである。「こうありたい」 「ああありたい」 の不完全、不満足がもとになってはじまっている運動ではないということを更に更に想うのである。それが感謝行としての人類光明化運動である。感謝なるもの、即ち不足ではなく満たされたものの行であり、感謝なるものが為す行(ぎょう)が感謝行なのである。

 感謝なるものとは神なるものであり、自分なきものであり、完成なるもの、渾(すべ)ての渾てなるものの行なのである。

 「神は今に至るも働き給う」 という天のコトバが鳴りひびいている。

 「今」 に至って 「今」 であってはじめて神なのである。「今」 が神なのである。神は常に 「今」 なのである。過去、現在、未来超脱の 「今」 である。すべてのすべてなる 「今」 である。

 「今に至るも働き給う」 ということが何故、永遠に働き給うという意味に受けとれて来るのか、ということである。「今に至るも働き給う」 だけでは、それは現在までのことであって未来は保証出来ないのである。それは、「今」 が神であり、神が永遠久遠であることは直観によって知っているのである。それは現象を超えているということである。この 「今」 が 「久遠の今」 であればこそ、永遠にという意味を味わうことが出来るのである。

 現象の積み重ねだけでは、永遠に永遠ということは出来ないのである。経験することが出来るとすれば、それはすでにそこまでということになって了(しま)うのであって、永遠、久遠は時間のトータルではなく、「今」 が 「神」 が 「實在」 が久遠なのである。時間を超えていることが永遠、久遠なのである。「完成」 なるものが永遠、久遠なのである。「完成」 なるものは完全であるが故に、永遠、久遠を満足しているのである。

 それ故、 「生長の家人類光明化運動はいつ完成するのか」 という問いには、「生長の家人類光明化運動は今に至るも働き給う」 ということなのである。完成のためにではないのである。完成なるが故に、完全なるが故に、 「今」 なる久遠なるものが展開しているのが生長の家人類光明化運動なのである。(1998.11.13)


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