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115復興G:2013/09/17(火) 07:47:41 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十五

 大聖師谷口雅春先生は、飛田給での練修生生活を終えた八人の者が本部に入る時、たまたま私の書いた論文をお読み下さり、

 「あなた方八人しか生長の家を知らないとしたら、どうするか。を考えなさい」

 とのお言葉を下さったのである。

 その時、私には 「あなた一人しか知らないとしてどうしますか」 との問答の問いのように想えたのであった。そして今でもそのテーマを片時も忘れたことはないのである。そのことから想うと、生長の家人類光明化運動のすべての責任は自分一人にあるのである、ということになると想う時、山口悌治(やすはる)先生が常に常に言われていた 「一切者の自覚」 ということが、今朝の神想観において心新たに想い浮かんだのであった。

 職場のことでもなんでも、本当は自分一人でやらなければならないことなのだ。すべてのすべて自分一人でやらなければならない筈のことなのであった。それを観世音菩薩が部員となって顕れ給いて、やって呉れているのだ、と想うと何か厳かな合掌という気持になったのである。

 生長の家人類光明化運動のすべてのすべては本当は自分がしなければならないところを、観世音菩薩がすべての人々となってやって下さっているのだと深いところから想えて来たのは、この 「覚え書き」 の中のうれしいものから出て来ていると想われるのである。そのように想えて来たことそのことが吾が内にありて、生長の家人類光明化運動が想い給うているのであった。

 中心帰一すれば、自分が中心となり、渾(すべ)ての渾てとなっているのである。遠心、中心本来一。一即多。多即一である。中心であると同時に一切となって展開しているのである。

 生長の家人類光明化運動は神であるが故に一切者なのである。一切者とは絶対者ということである。 「はるばると目路(めじ)の限り眺むるに十方(じっぽう)世界ことごとく生長の家人類光明化運動なり」 である。生長の家人類光明化運動が自己展開して神想観となっているのである。生長の家人類光明化運動が自己展開して聖典、聖経読誦のすがたとなっているのである。

 生活において、光明化運動と自分との分離はないのである。光明化運動独在であり、光明化運動一元である。

 「光明化」 の 「化」 は光明が一切となって自己展開していることなのである。それ故、光明が光明するのが光明化と言うことなのである。尽十方(じんじっぽう)に無礙光(むげこう)しているのが光明化ということなのである。

 「生長の家人類光明化運動は絶対であるということを知れ」 ということが、一人しか生長の家を知らない時ということであったのである。絶対的独一なるものとして人類光明化運動が存しているその相(すがた)を自分の相(すがた)として生きよ、ということであったのである。

 大聖師はそのような相(すがた)で永遠に、久遠にいのち立ちつづけであり給うのである。 「吾れに投ぜよ」 とは、この生長の家人類光明化運動を受けよ、ということであったのである。

 「完成(ななつ)の燈台」 とは 「絶対の燈台」 ということである。 「真理、光明、智慧、絶対の愛としての燈台」 ということである。このいのちの単伝の消息が、大聖師谷口雅春先生からの総裁谷ロ清超先生への法燈の継承の消息なのである。一つなるものから一つなるものへ、渾てなるものの渾てなるものへの継承であり、余すところなき滴々相承(てきてきそうじょう)である。(1998.9.23)


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