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129復興G:2013/09/28(土) 22:31:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十七

 生長の家に神殿は要らぬ、『生命の實相』 の本が神殿である、と示されているのである。

 しかし、物質で出来た神殿は要らぬが、同じく物質で出来ている本は必要である、ということになっているのでは、結局は神殿は必要である、ということになるのではなかろうか。

 『生命の實相』 の中には、 「物質は無い」 と書かれているのであって、この 「物質無し」 が 「神殿無し」 ということなのである。神殿みずからが 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りのよろこびの輝きそのものが神殿であり、 「神殿(かみどの)」 すなわち 「神様」 なのである。

 みずからの消え切りの、澄み切りであってこそ聖なるものであり、神なるものなのである。聖典 『生命の實相』 は神殿ではなく神そのものなのである。神そのものにとっては神殿はまさに不必要なのである。神は渾(すべ)ての渾てにましますからであり、神の外にあるものなし、であり、神を入れる入れものは必要ではなく、そのようなものは有り得ないのである。

 生長の家人類光明化運動には神殿は不要なのである。生長の家人類光明化運動が神そのものであるからである。それみずからが渾ての渾てであるからである。

 それ故、組織の中に生長の家人類光明化運動があるのではないのである。生長の家人類光明化運動の中に組織があるのであって、組織という人間の手によって組み立てられているのがこの運動ではないことは、繰り返し覚え書きしている通りである。

 その外に何ものも存在しない渾ての渾てなるものが神であり、生長の家人類光明化運動なのである。

 何ものによっても行き詰まることのない、相対、対立を超えた創造的前進あるのみなのが生長の家人類光明化運動なのである。問題、悩みがあってはじめて始まった運動ではないのである。問題や悩みがなくても成り立っているのであり、神殿は不要であるということは、問題や悩みが不要であるということなのである。

 問題、悩み自体が存在しないというよろこびの広がりが、光明化運動のひろがりなのである。神の前には問題も悩みも有り得ないのである。

 今、ここに神がまします、ということのほかには何ものも無しなのである。世界をこめての問題や悩みを抱えて出発したのがこの運動ではないのである。

 神が天地を創造され給うたのは、ご自分の中の不満足、不完全を満たすために創造され給うたのではないのである。神は不悩不苦(ふのうふく)そのものであり給うのである。生長の家人類光明化運動も不悩不苦なのである。

 また、神は懺悔(ざんげ)をし給わないのである。神は罪を犯してい給わないからである。その如く、生長の家人類光明化運動は罪を犯してい給わないのである。そこにはただただ創造的前進あるのみなのである。

 生長の家人類光明化運動の歴史は成功の歴史であって、反省のための歴史は有り得ないのである。この運動は 「罪を犯さんと欲(ほっ)するも罪を犯すこと能(あた)わず」 と約束されているからなのである。

 ここに書きつづられている 「覚え書き」 も反省のためのものでは決して有り得ないのであって、ただただ讃偈(さんげ)のためのものであるのみなのである。(1998.10.5)


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