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70復興G:2013/08/15(木) 08:10:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十七

 「神に隠るるもの」 という題名が心に湧き起こり、それを想って出て来た言葉をしばらくの間、書きつづけたことがあった。今再び 「神に隠るるもの」 という言葉がフトしたことから新たに想いにのぼって来たのである。

 「神に隠るる」 と言えども、神は天地のはじめのはじめより 「身(みみ)を隠し給いき」 であり給うのである。それ故 「神に隠るる」 とは、神はすでに身(みみ)を隠したまいて、みずからの消え切りであり、澄み切りであり給うのであるから、 「神に隠るる」 とは 「澄み切りに隠るる」 ことなのであり、澄み切りの澄み切りにあずかることなのである。

 澄み切りの澄み切りにあずかるとは、 「澄み切りも無い」 ということを受くることなのである。澄み切りみずからが 「私は無いのです」 と鳴りひびいているその鳴りひびきにあずかることなのである。あずかる自分もまた 「私は無いのです」 との消え切りの消え切りなのである。

 どこまでも、どこまでも、消え切りの消え切りであり、澄み切りの澄み切りなのである。

  朝みどり澄み渡りたる大空の
     広きをおのが心ともがな(明治天皇御製)

 大空が広いのではないのである。澄み切りが広いのである。澄み切りの澄み切りこそ広さの広さなのである。はじめのはじめであり、渾ての渾てなのである。

 何故 『聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)』 に、生長の家が 「広大の慈門(じもん)」 と録(しる)されているのであるか。 「広大の慈門」 とは 「澄み切りの慈門」 であるからである。 「光明化運動」 が 「私は無いのです」 とのみずからの、消え切りの、澄み切りであるからである。

 形のある澄み切りということは有り得ないのである。ここからここまでという区切りのある澄み切りということは有り得ないのである。

 「生長の家人類光明化運動」 は 「神に隠るる運動」 であり、 「澄み切りの澄み切りなる運動」 なのである。

 身(みみ)を隠す、澄み切りの澄み切りは、独神(ひとりがみ)の絶対の真性なのである。それ故、澄み切りの澄み切りなる 「生長の家人類光明化運動」 は 「絶対の運動」 なのである。

 絶対なるもの、澄み切りの澄み切りなるものを 「光明」 というのである。

 絶対なるものとは、完成なるものであるから、 「絶対の運動」 である 「生長の家人類光明化運動」 は 「完成なる運動」 であるということが言えるのである。

 それ故、生長の家の大神は 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 であり給うのである。 「完成の燈台の点燈」 としての運動が 「生長の家人類光明化運動」 なのである。

 「点燈」 とは如何なることであるか。すべてのものが 「完成なるもの」 であることへの祝福礼拝なのである。祝福するものなくして祝福し、祝福されるものなくして祝福されるのである。礼拝するものなくして礼拝し、礼拝されるものなくして礼拝される。ともに消え切りの消え切りであり、澄み切りの澄み切りである。澄み切りの澄み切りが、澄み善し、であり、住吉である。生長の家人類光明化運動は住吉の大神の運動なのである。

 自分をとりまく天地一切万物万象ことごとくが観世音菩薩である。観世音菩薩は尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり、生長の家の大神にましますのである。即ち、天地一切万物万象ことごとくが生長の家の大神であるということである。このことを教えているのが生長の家であり、祝福礼拝ということの中身なのである。 「神に隠るるもの」 とは、すべてが生長の家大神であることをよろこぶもの、という意味なのである。(1998.8.26)


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