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21復興G:2013/07/06(土) 06:58:59 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十七

 實相は今すでに、はじめのはじめから完全円満なのである。これに引きかえ現象は時間をかけて徐々に良くなって行く存在である。それ故、時間をかけて、これから浄まって行くという、現在意識によって左右されるところの潜在意識というものは現象であって、無いのである。現象無しと言った時、潜在意識は無いのであり、それだからこそ實相はそのままで円満完全であるということが出来るのである。

 それ故に、實相円満完全という言葉は、事実なのであって、これを潜在意識にたたき込むためのものとしてしまってはならないのである。潜在意識を認めている以上は、實相の円満完全は實在の相ではなくなってしまっているのである。實相円満完全は真実、今ここに “ある” ものであるからこそ實相円満完全なのである。

 生長の家の説く實相円満完全論をすべて潜在意識のためのものとして、潜在意識のレベルにダウンさせてしまってはならないのである。生長の家の説くところは、潜在意識を超えて、読者の實在の實相の完全円満、自性円満を礼拝して説かれているのである。それは現象を認めての激励のものではないのである。

 あれほど沢山の本やご諧話によってもたらされた唯神實相の偉大なる説法も、潜在意識にたたき込むために聴き、受けとめていては、話す方と受け取る方とに食いちがいが生じていると言わなければならないのである。

 なるほど見えないものの存在の説明に潜在意識を持ち出すことは大変便利なように一見見えるのではあるが、潜在意識という現象を認めてしまうことになってしまっては、永遠にそれを超えた實相に超入することは出来ないのであって、遠まわりになってしまうどころではなくなってしまうのである。

 聖経 『甘露の法雨』 には 「罪は不完全なるが故に實在にあらず」 と歌われているのである。それ故 「潜在意識は不完全なるが故に實在に非ず」 ということなのである。

 ひるがえって想ってみれば、練成会で行われている浄心行は、この潜在意識を相手とする行事の最たるものではなかろうか。しかも、ともすればこれが練成会の最重要行事のようにさえ思われているということもなきにしもあらずなのではないだろうか。

 しかも、聖経 『甘露の法雨』 の一斉読誦のうちに焼却が行われるのである。聖経に鳴り響いている實相讃嘆のひびきと、本来具有している参加者本人の内なる實相円満とがひびきあって、實相がおのずから顕れて不完全が消えるということを想わないで、説明で聴いた潜在意識に、真理をたたき込んだが故に不完全が消えたと錯覚してしまうということが無きにしもあらずなのである。それでは生長の家の結論である唯神實相の説かれている聖経 『甘露の法雨』 の中身から遠ざかっていること、はなはだしいといわなければならないのである。

 なるほど聖典 『生命の實相』 には潜在意識という言葉は使われているところも確かにあるのである。しかし、それを超えることは現象はないこと、潜在意識は不完全なるが故に實在には非ざることを知ることによってのみなのである。潜在意識に實相の完全円満なる想いを注入するといえども、その中身は、潜在意識という現象は無い、ということを知ることにほかならないのである。 「現象無し」 が、 「實相のみ在り」 が生長の家である。知らぬ間に現象あり、したがって實相無しの中身にすり替わっていることのなきよう心すべき事とみずからに言いきかせているのである。(1998.7.17)


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