したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

web誌友会参考文献板

78復興G:2013/08/23(金) 07:02:27 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十五

 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚する」 とは、自性(じしょう)円満なるもの、そのままえんまんなるものにとっては、そこにある 「自覚」 とは、自性円満なるものの中にすでにあるものの自己展開したものでなければならないのである。

「自発的」 という場合の 「自発」 なるものは、自性円満なるものの、自(みずか)らの展開ということでなければならないのである。

 ひと昔、後に本部理事長をされた山口悌治(やすはる)先生は 「自発的活動態勢」 という言葉をよく使われたものであった。

 この 「自発」 というものが生命の實相の 「自性(じしょう)」 ということであったのである。その自性円満を自覚するところに神癒なるものが存するのであれば、 「自発的活動態勢」 と仮に言うとすれば、それは神癒の展開としての人類光明化運動から出て来た言葉であったと言うことになるのである。

 自発なるものは、求めるのではなく与える相(すがた)なのである。与える生活ということの根本は、外に求めることの要らない存在、ということが根拠となっているのである。ここに奉仕ということの根拠があるのである。自性円満なるものこそ与えるということそのものの相(すがた)なのである。

 これから何をするしないの前に、今、存在していること自体が与えている存在なのが自性円満ということなのである。

 「光明化運動」 的に表現すれば、存在していること自体が “世の光り” であるということなのである。いわゆる 「聖使命」 の 「聖」 なる存在、 「ひじり」 即ち 「日がいちじるしく輝いている相(すがた)」 なのである。そのいのちを拝んでつけられたのが 「聖使命」 なのである。それが實相であり、實相のみの世界なのである。

 そのいのちは、神からさえ求める必要のない存在なのである。吾が内に神あり、神の内に吾れ在り、吾れはすべてのすべてであるところの存在なのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 なる龍宮観において、創造の本源世界、龍宮海の龍宮城が自分の内にすっぽりと入っていることを観ずる場所である入龍宮幽斎殿的見方をすれば、宇治というのは宇宙を治めるということではなく、 “宇宙が既に、自分の内に治(おさ)まっている” ということを観ずるところが、宇治別格本山の入龍宮幽斎殿であるということなのである。創造とは与えることそのものである。その本源が自分の中にすっぽりと治まっているのである。

 至大無外、至小無内なる全實在宇宙が吾が内に在(あ)りというものこそ、聖なるものであり、与えるものであり、自立なるものであり、自足なるものであり、奉仕なるものなのである。それが自発の自発なるものなのである。

 「自覚」 とは、自(おの)ずから覚める、と書かれているのである。自性円満、そのままでえんまんなるものが、みずから覚めるとは、自己展開することである。それ故、自性円満なるものが自覚そのものなのである。

 自覚とは時間を要する遠いところにあるのではないのである。みずからの自性円満の實相こそが自覚そのものなのである。

 イザナギの命(みこと)が實相の世界で禊ぎ祓いをされ給うたというのは、自性円満の實相そのものを自覚し給うたこと、即ち、自性円満の實相なるものがみずから展開したことを意味しているのである。

 イザナギの命の自性円満なる實相が自己展開して天照大御神となり、住吉大御神となり、塩椎大御神となり、 「生長の家人類光明化運動」 となっているのであり、これらは一つの相(すがた)なのである。

これらはすべて自性円満なる實相の自覚の相(すがた)、すなわち神癒なるものの相なのである。自分自身のことなのである。これすべて、入龍宮出龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうしゅつりゅうぐうふかしぎ)の境涯なのである。(1998.9.3)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板