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148復興G:2013/10/11(金) 20:38:35 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 (昭和22年発表) つづき>
      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

 彼らに与えられる 「神」 は大時代的なごてごてした装束をつけている必要はない。フランス風な小粋な姿をしていても好い。必要な時には白装束をつけてもよいし、真裸になってもよい。何れにしても、神を限定してはならない。神の衣裳は無限のバラエティにとむ。「宗教」 はつねにしかつめらしく 「荘厳」 でなければならないことはないのである。時には 「軽快」 な機智をひらめかし、風刺と諧謔(かいぎゃく)に人を哄笑(こうしょう)せしめ、或は悲劇に涙をしぼらしめ、美しき言葉を奏し、絵画を制作するだけの無限の可能性を内包していなければ、十分とは言えないのである。

 そして又 「科学」 は 「宗教」 と一致しなければならない。唯物論者の食卓に配給する 「宗教」 は、やはり幾分か 「科学」 のバターでいためなくてはならない。そのバターは 「宗教」 の中に渾然(こんぜん)ととけこんでいないと彼らのお気にめさない。元来真の宗教は 「科学」 と一致する性質のものだ。科学の言う 「法則」 とは即ち 「神」 であった。スペンサーはその教育論に於て次の如くに言う。

 「科学が非宗教的であるのではなく、科学の蔑視が非宗教的なのである。(中略) こうして本当の科学は本質的に宗教的であるだけではない。万物が見せている行動の不変に対すろ深い尊敬と暗黙の信仰を生むが故に、科学は宗教的である」

 ――と。

 十九世紀イギリスの生んだ世界的科学者ハックスレー教授は次の如くに言う。

 「真の科学と真の宗教は、双生児である。だから一方を他方から引きわけることは、必ずや両者の死を招くのである。科学はそれが宗教的であるに正比例して栄え、宗教は、その基礎が科学的な深さがあり、しっかりしているに正比例して栄えている。哲学者達の偉大なる仕事は、彼らの知力の結果というよりも、すぐれて宗教的な精神が与える知力の傾向の結果である。真理は、彼らの鋭敏な論理よりも、彼らの忍耐、愛、真心、自己否定に身を任せるのである」

 科学と宗教のみならず、哲学と宗教との一致をも彼は説いた。相対性原理で有名なアインシュタインは道徳と科学の一致を強調し、科学的真理は、人間としての善をあたり前に行い、いやしくも正しからざる事を行わないことによって発見されるのだと言っている。更にスペンサーは言う。

 「あらゆる種類の芸術は科学に基礎をおいている、科学がなかったら完全な作品もつくれず十分な鑑賞も出来ないだろう。芸術の作品がすべて多かれ少かれ、客観的、主観的現象の表現であり、こういう現象の法則に合致して初めていいものとなることが出来、美術がこうして合致する前に芸術家はこういう法則の何たるかを知らねばならぬということをおもえば、科学が必然的に、芸術の基礎をなすということは先天的に明かである」

 かくの如くにして、宗教、科学、芸術、哲学、倫理は、渾然として融和し、一にして多、多にして一、その間にいささかの空白もゆるされない。これを個別にバラバラに分解し、芸術を芸術のみに分離して、その不安におびえたところにフランス近代の苦悩があり、ニヒルが生れ、唯物論が生れた。

 イギリスやアメリカに於てはさいわいに科学と宗教と芸術があまり分離せず、それが相おぎない合って円満な発達をとげたために、精神の安定がくずれにくかった。かくして今や、現代のたくましい生命力ある政治をかかる凡(すべ)ての精神分野の上に正しく安定せしめることが出来る国は繁栄し、国内及び国際両政治に大いなる成功をおさめることが出来るのである。

 <つづく>


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