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復興G
:2013/11/18(月) 19:58:33 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
百二十八
神とは何であるか。神とは 「人間のそのまま」 である。むつかしいことも何もない、「人間そのまま」 が神なのである。
何であるのが神であり給うか。人間であるのが神であり給うのである。人間でない神はあり給わないのである。「今」 ということである。「ここ」 ということである。「そのまま」 ということである。「そのままの人間」 が神であり給うのである。「そのまま」 なるものが神であり給うのである。斯(か)く書かしめているのが神であり給うのである。斯く書かしめられているいのちもまた神であり給うのである。
「吾れまた、新しきエルサレムの花嫁の姿をして天降るを見る」 とは、神そのものが新しい、「今ここ」 「このまま」 「そのまま」 なる、完成なる 「吾れ」 の姿をとって吾が内より天降る厳(おごそ)かなる 「当方」 なるものの相(すがた)であり給うことを言っているのである。
生長の家の聖歌 『神霊降誕譜』 の三番は、
おしえおや うまれたまいて
このせかい すがたかわりぬ
やみおおき 世界は消えて
ひかりみつる 此の世浄土と
うちつどい かみをたたえん。
と歌われているのである。
既に此の世は変貌しているのである。教え親が生まれ給いてということである。お悟りになってということを超えているのであって、この 「生まれる」 とは、 「吾れ生まれてより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)以前なり」 というほどの意味であり、また 「吾れはアブラハムの生まれぬ前(さき)より生まれてあるなり」 というほどの意味なのである。「生長の家は久遠の昔よりある」 のであり、「私は母親の胎内より生まれたるに非ず」 であり、人みな 「女の子宮より生まれたることなし」 の祝福となって雨降っている讃嘆のコトバが聖経 『甘露の法雨』 となったのである。
「おしえおやうまれたまいて」 の 「うまれたまいて」 ということは、限りない自分でありながら自分でない 「自分これ自分に非ず、是れを自分という」 態(てい)の内なるご存在、内なる臨在を拝するお言葉であり給うのである。
この 『神霊降誕譜』 は、一応、生長の家本部がつくったことにはなっているが、当時のどなたかが歌詞を大聖師のもとにとどけて、それが帰って来たときには、殆ど、全部かわって、別のものになっていたという。大聖師が書き直されたのである。それ故、 「おしえおやうまれたまいて」 という、大聖師がご自分が何ものであり給うか、それを 「自分ならざる自分」 として崇め給うていたところから出で来たって、 「うまれたまいて」 となっていると拝察されるのである。
四国に巡講され給うたとき、歯が痛まれたので、相愛会の連合会長のお兄さんが歯科医であったので,その人に診てもらわれたのである。弟は大聖師のことは知っていても、お兄さんの歯科医さんは、あまりよく大聖師のことを知らないものであるから、口を器具で治療しながら、「いくら偉い生長の家の谷口雅春先生でも、やっぱり歯は痛みますかねッ」 と言ったそうである。付き添っていたものは気が気でなかったであろう。すると大聖師は
「谷口雅春は痛んでいても、谷口先生は痛んでいないよ」
と言われたそうである。まことにみずから、「うまれたまいて」 と拝さずにはいられない、厳かなる 「自分ならざる自分」 なるものの消息である。(1998.11.5)
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