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181復興G:2013/11/19(火) 09:34:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十

   このままが 「神の子」 であり、このままが 「神の国」 であることに気がつかないで、どこかよそに神の子があり、神の国があるように思っていたのがまちがいだったのだ。


 自分の行いの中に、自分の行(ぎょう)の中に、それをつづける時間と回数の中に、神の子と神の国があるのではなく、 「自分」 というものの要らない、自分というものが全く入る余地のない、 「今」 が神の子であり、神の国であるということは何という厳かな発見であろう。

 それに 「気がつく」 ということと 「気がつかない」 ということとはその領地をせめぎ合っているのではない、ということが 「今」 ということなのである。

 結局は、 「気がつけば」 あるが、 「気がつかなければ」 無いという存在が神の子や神の国ではないと受けとるのが 「今」 ということであり、 「今」 を生きるということなのである。

 「今を生かす」 というのは行(ぎょう)中の最大の行である、というのは、 「今」 が神であり、 「今」 が神の国であり、 「今」 が神の子であり、 「今」 が渾(すべ)ての渾てであるからなのである。

 「気がつく」 「気がつかない」 ということは自覚するかしないか、観ずるか観じないかの問題と同じことであるが、その問題そのものが 「不完全なるが故に實在に非ず」 ということであると受けることこそが 「今」 が生きることなのである。

 神も、神の国も、神の子も すなわち實相は、気がつけばあるが、気がつかなければ無い、ということになれば、その 「気がつくのがなかなか!!」 ということになって、結局は、神も神の国も神の子も遠い存在となってしまうのであるが、 「神の創造には失敗はない」 のであり、 「不完全はない」 ということにおいて、 「今」 文句なしの世界と人間がここにある、ということによって、この問題を超えるのが生長の家の實相哲学なのである。

 ここのところを如何に説明し得るか、ということが、繰り返しになるが二十一世紀に与えられた美しい、光栄あるテーマであるが、これはあくまでも創造的テーマであって、テーマを解決しなければ今、完全な生活はない、神の子ではないということではないのである。テーマさえも完全なるものの自己展開として創造しているというすがたなのである。

 これは二十一世紀にだけのテーマではなく、世紀を超えて、すべての人々のアタックして来たテーマであると言えるのではないか。

 神は割り切れていないということはないのである。「天地一切のものに感謝せよ」 とのコトバは神より出でて神そのものである。神は完全なるが故に、このコトバも完全であり、すべてのすべてなのであって、天地(あめつち)を貫き、天地(あめつち)を天地(あめつち)たらしめてこのコトバは鳴りひびいているのである。

 食前にのぼるものが、野菜であろうと、魚であろうと、肉であろうと、「感謝せよ」 なのである。まことには、野菜は野菜ではなく、神なのであり、魚は魚ではなく神なのであり、肉は肉でなく神なのである。どこにも犠牲になったものの呻(うめ)きはないのである。

 「若(も)しも神のゆるしがなければ、一片の野菜も、魚も、肉も、食前にのぼること能わず」

 である。そこに 「感謝せよ」 が鳴っているのである。

 「現象無し」

 によって宇宙を割り切れている 「生長の家の食事」 である。(1998.11.7)


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