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17
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復興G
:2013/07/02(火) 06:46:41 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
十三
「数は力なり」 というのは唯物論である、と言った人があったが、それは数を集めるためには時間がかかるからであり、時間のかかるものは完全ではなく、實在ではなく、 「現象無し」 の宣言によって、吹き消されているものであることを知ったいのちの言葉であったのだと信ずるのである。
数はそれを使ってよろこばしさを顕わすためのものであって、それのあるなしによって、こちらの価値なるものが上がったり、下がったりするものではないのである。
また、生長の家は、集める教えではなく、すべてのものの、そのままの相(すがた)を拝みに出て行く教えなのである。そして、全宇宙をそっくりそのまま生長の家であるとして拝んでいる教えなのである。
○○学会が十万人も集めてマスゲームを神宮外苑で挙行したことがあって、その十日も経たないうちに、私たち学生がお山の谷口雅春先生宅で座談会をしていただいて、ご指導に浴したことがあった。その時、一人の学生が尊師に、
「生長の家は世界一の教えであるのに、なぜ、○○学会のように集まらないんですか?」
とお尋ねしたのである。幸いに満ちたよろこばしさの雰囲気の中に、尊師は
「今のうちにあのように集める練習をしておいて貰って、そのうちにこちらが話しに行くようになるのです」
と言われたのであった。それからもう三十年近くもたっているが、天地一切礼拝感謝の教えである生長の家は、集める教えではなく、そのままの完全な相(すがた)を拝みに行く教えであり、それであればこそ、全宇宙組織がそのまま生長の家の組織であると、そっくりそのまま置き換えることの出来る教えである、と尊師がお示し下さっていたのであると、日に日に新たに想えて来るのである。
ここに、 「ある狭い範囲は多勢(即ち数)で救えるが、全宇宙の救いは一人によらなければならない」 という命題に逢着せざるを得ないのである。
釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 もキリストの 「Kingdom of heaven is at hand」 も、個々の魂を救って行くのは、自分一人だけ救われればよいという声聞縁覚(しょうもんえんがく)に比べればやや上乗なれども 「佛の正覚(しょうがく)は全宇宙の成佛を一度に観る」 (谷口雅春先生著 『天皇絶體論とその影響』 ―謹序―)という尊師のお言葉、これらはすべて、一が渾(すべ)ての渾てである消息なのである。聖経 『甘露の法雨』 には 「悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり、人間は光明生命なる實相を顕現せん」 と唱われているのである。
これらはすべて、神はあるか否かということに帰着するのである。不完全があれば神は無いのであり、神があれば不完全は無いのである。それ故、如何なる種類のものであれ、不完全は無いのである。ただただこのことによってのみ、即ち、神は極楽そのものであり給うが故に、今ここに世界には救われていないものは一人もいない、ということはあり得るのである。それは多数の人間が集まって決めることでもなければ、造り出すものでもないのである。ただただ 「神は完全である」 というこの厳かなる真実がそれ自体で在りて在るのみなのである。
天皇の六合照徹(りくごうしょうてつ)光明遍照の世界が 「今ここ」 に在るという 「今ここ」 が 「今上(きんじょう)」 ということなのである。天地(あめつち)の創り主なる、渾(すべ)ての渾てであり給うことが拝せられるのである。天皇は絶対にましまして、天皇によって救われていないものは一人もなき世界の統べみ親(すめらみこと)にましますのである。(1998.7.13)
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