したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

web誌友会参考文献板

79復興G:2013/08/24(土) 08:14:18 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十六

「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ。只今神癒祈願(しんゆきがん)申し込み中の方々に、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚せしめ給いて、神癒を実現せしめ給え」

 と、自分は神癒を祈る時に唱えることにしている。

 それは 『生命の實相』 第一巻の本論の冒頭に

「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」

 と書かれているからである。あらゆる神の癒しという癒しはすべて、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚することによって実現しているのである。

 自性円満の自覚によるのであって、不完全の自覚、罪の自覚によってではないのである。

 神癒の展開として生長の家人類光明化運動がある以上は、生命の自性円満の自覚運動であるのがこの運動なのである。

 そのままでえんまんなこと(自性円満)の自覚のひろまることが、光明化運動(自性円満)がひろまることなのである。

 實相の自性円満はそのままでえんまんなことにおいて、自ら目覚めて自覚となって展開し、一切の光明化運動の相(すがた)となって花咲いているのである。

 自性円満の自覚と言えども、その自覚も神が為し給うのである。實相の自性円満とは神であり給うことである故に、人間力の入る余地はいずこにもないのである。

 神自(みずか)らの目覚めとしての自覚として神癒があり、人類光明化運動がありつづけているのである。その自覚は久遠の昔から在りつづけている久遠の自覚なのである。

 久遠を流るるいのちの自覚こそ久遠の生長の家人類光明化運動なのである。神がおはじめになった運動とはこのことである。神は渾(すべ)ての渾てにましますが故に、自分の全く要(い)らないのが、神がおはじめになった運動なのである。

 既に完成している實相なるものの運動である時、はじめて、はじめのはじめから自分というものは消えている運動となっているのである。

 自分がいて、自分が支えてやらなければならない、というような運動は、我(が)の運動であって、神の運動、感謝の運動ではないのである。それはもともと無い運動だったのである。そんな運動であったためしのないのが生長の家人類光明化運動なのである。いのちが久遠に流るる運動なのである。

 生長の家の運動は感謝の運動であるということは、神がすべてのすべてであり給う運動であるということなのである。

 それはまた、神癒の運動であるということにおいて、神が癒しそのものである運動であって、ここにもまた自分の必要はどこにもないのである。

 自分なるものは未(いま)だかつて生長の家の運動をしたことは一度もなかったのである。自分そのものが無いからである。

生長の家の人類光明化運動は、天地(あめつち)の初発(はじめ)の時のまま、 「今」 をはじめとする天地(あめつち)のはじめに、神と偕(とも)にあったそのままの相(すがた)で、今ここに輝きつづけ、広がりつづけなのである。

 久遠を流るるいのちの 久遠を流るる人類光明化運動よ。(1998.9.4)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板