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87復興G:2013/09/01(日) 05:05:20 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十四

 「時間を生かせ」 という大切中の大切なる言葉がある。何故大切であるか。それはまことには私が時間を生かすのではなく、時間は神が私に与え給うた自己表現のための愛念そのものであって、時間が私を生かすのである。それ故に、時間を生かすことは、愛を受けて、神の愛によって生かされることにほかならないのである。

 時間を生かせということと同じ意味において、空間を生かすということは、空間が私を生かして下さる、その神の愛に包まれ、浴することにほかならなかったのである。

 時間というものは、こちらの都合で生かすも殺すも勝手次第というようなものではないのである。神の愛は久遠不滅であって、生かすほかはないのである。生かされるほかは無いのである。このように観ずることが 「時間を生かせ」 ということの第一歩なのである。

 「今を生かせ」 というのも同じ意味において尊いかぎりのことなのである。今が渾(すべ)ての渾てであり、渾ての渾てでないものは今ではないのである。これは久遠の今であり、今である久遠なのである。實在なる今ということである。

 そのように今なるものの展開として、今なるものによって在らしめられ、生かされているのであって、そのように観ずることが 「今を生かせ」 あるいは 「今を生きよ」 ということを生きる第一歩なのである。

 斯(か)くの如き意味、相(すがた)において、吾々によって生長の家人類光明化運動があるのではなく、生長の家人類光明化運動によって吾々があるのである。

 光明化運動を生かすも殺すもこちらの勝手次第というようなものでは決してないのである。光明化運動は神そのものであり、不滅であり、生かすほかはなく、吾々もまた生かされるほかは有り得ないのである。

 自分みずから在り、自分みずから顕れるのが光明化運動なのである。光明なるものがみずから運動しているのが光明化運動なのであり、吾々によって光明があるのではないのである。みずから在りて在るものを光明というのである。

 生長の家人類光明化運動に加わりたいとの願いが起こること自体が、既に、はじめのはじめより、久遠の昔より自分の内にある生長の家人類光明化運動なるものが、みずから現れ出て来て、その願いとなって輝いているのである。既に全宇宙、全實在に根をもった生きた芽が出て、その願いとなっているのである。

 これに反して、自分ではじめたという光明化運動は造花の芽のようなものであって、虚(むな)しいものなのである。

 全實在に根をもった生きた芽と、造花の芽との違いは、生きた芽の方は、 “忘れていても伸びている” ということである。

 生命の特徴はみずからの内に伸びる智慧と力とを備えているということである。

 そのような生きものとして生長の家人類光明化運動なるものはあるのである。生長の家人類光明化運動はみずから生長する力を円満具足しているということである。このように観ずることが光明化運動を自分の力でかつがなくなることなのである。

 これが我(が)の要(い)らない、感謝の当体(とうたい)としての生長の家人類光明化運動の輝きなのである。

 全托(ぜんたく)するとは、全てを托すことである。全宇宙を神に托すことが全托ということである。それは自分が要らないという相(すがた)でなければならないのである。全宇宙の光明化を生長の家人類光明化運動それ自身に全托することの出来る道がここにあるのである。(1998.9.12)


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