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172
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復興G
:2013/11/06(水) 16:15:37 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
百二十二
苦しんで索(もと)めても神はどこにも見出せなかった。
ある(はず)筈だと想って、現象のどこかに求めること自体が遠ざかっているのである。あるかぎりのものを否定して、「無い」 と言えるすべてを否定して超えた時に、「無い」 と言えないものとして、知る必要なくして在りつづけるところのものが實在なるものであり、神なるものであるのである。「無い」 と否定する自分も無いのである。
「無い」 と言えるすべてのすべてが無いのである。 「無い無い無い……」 と進んでゆくとき、虚空(こくう)の中心より輝くひびきとして 「無い無い無い……」 と輝くものが鳴っており、「無い無い……」 と言えば言うほど、その中心なるものが強く輝く鳴りひびきとなるのである。
すでに自分はなく、「無い無い……」 と輝く中心なるもののみがあり、それのみすべてのすべてなることを想わざるを得ないのであって、在るものはただただ 「無い」 と言えないものであり、それは 「無い……」 とみずから言っているものであり、輝いているものなのである。その輝いているものこそ實在なのである。
「無い……」 とみずから言うもののみ、こちらが 「無い」 と言えないもののみがあると言うことなのである。
「無い」 とこちらが言えば言うほど 「無い無い……」 と輝くもの。ただただ 「無い」 ことの光りの甦(よみが)えりの一筋のみあるのである。無の門関に坐す消息である。
無の門関は無い門関であり、門関自身が消えているのである。
神想観も自分もないのである。「吾れ今五官の世界を去って」 というとき、自分も神想観も幽斎殿(ゆうさいでん)もみずから、おのずからなる消え切りなのである。
求めている意味での神は無いのである。なぜならば、 「神は無い」 と言えるからである。そして無いものを無いとし、その無いということも 「無い」 と超えて、そこに 「無い」 と言えない 「無い」 なるものの当体が輝いてみずから鳴っているのである。それは認められ、観じられて存在に入るものではなく、「無い」 と宣言されてはじめて存在するものなのである。「無い」 と言わなければ存在しないものなのである。「無い」 と言えば言うほどその輝きを増す態の存在なのである。この 「無」 こそ 「無一物中無尽蔵」 の 「無」 であり、 「無より 「切を生ず」 の 「無」 であり、龍宮本源、創造の本源そのものなのである。
求めている間、どこにも見出せないのである。外に求めても、内に求めても、求めること自体が 「無い」 のであり、 「無の門関」 を通らなければ、神は外にも内にも居給わないのである。内に対する外もなく、外に対する内も無いのである。相対(そうたい)そのものが無いのである。求めるものと、求められるものとの相対はなく、認めるものと認められるものとの相対もないのである。相対の世界に神は居まさないのである。神は
真理
光明
智慧
絶対の愛。
と聖経 『甘露の法雨』 に歌われているのである。絶対が愛であり、神であるのである。愛するものと愛されるものとの相対には愛は居まさないのである。.
信じなくとも、解らなくとも、認めなくとも、観じなくとも、自覚しなくとも、あらゆることは無いのであって、それを超えて
「私はお前そのものである」
と神は宣(の)り給うていたのである。(1998.10.30)
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