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123復興G:2013/09/23(月) 22:45:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十二

 生長の家に、これからどんな宗教画が生まれるかが楽しみである、と言った人があったが、大聖師谷口雅春先生は、神想観によって、光明なる大實相世界に光明の絵を描かしめて下さり、鑑賞させて下さり、味わわせて下さっているのである。

 神想観する度に、大實在の宗教画を観じていると言わなければならないし、みずから描いていることになっているのである。毎日毎日生きた、生命そのものなる絵を味わっているのが神想観であると言えるのである。

 静かに、沈黙する。しかし、静かであること、沈黙するとは、声を立てないということではないのである。まことの静けさ、沈黙とは,対立なき、絶対的創造の中心に立つことであり、 「光りは当方より」 の 「当方」 であることなのである。全實在を尽十方(じんじっぽう)放射している、その放射する側に自分が立つことなのである。

 形では声を出していなくとも、声を出していないという声を出しているのである。

 まことの沈黙とは 「今」 ということである。過去、現在、未来なる時空(じくう)を超脱し、声を出すものと、聴くものという相対、対立なき、ひとつなるものそのものを受くることなのである。ひとつより更に創造的展開が行われている相(すがた)こそ静かなることであり、沈黙なのであり、音立てないことなのである。三界(さんがい)に身を現さないとは、時空超脱、三界を超えて、絶対の創造の主体そのものを成就していることにほかならないのである。

 「三界に身を現さない生長の家人類光明化運動」 とはこのことの消息の中にあるのである。

 「天照す御親の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照(いてら)し宇宙(くに)静かなり」

 の大光明宇宙が、大創造を行っている相(すがた)こそ、 「静かなり」 であり、この天照す大みひかりそのものとしてあるのが、生長の家人類光明化運動なのである。

 人の手を必要としない光明化運動、手あかのついていない光明化運動とは、三界に身を現わさない光明化運動ということである。生長の家は今 「『完成(ななつ)の燈台』 として人類の前に臨(のぞ)むのである」 と言えども、みずからの消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる相(すがた)であるという意味であって、人類の前に相対、対立の相(すがた)として身をあらわすことではないのである。

 「『生長の家』 信徒行持要目」 には 「常に自我を死に切るべし」 と書かれているのである。宗教教団的自我の死に切りということである。 「おれが救ってやった」 という必要のない世界である。

 大聖師は、 「私は一人も救っていない。ただ自分が、そのまま罪なき神の子であると解った時、すべての人々も同じ姿であることを拝みたくなったのであり、いちいち拝みに行く訳にいかないので、本で拝んだのである。気がついてみると、自分も皆さんから拝まれていたのです」 という意味のことをその著 『美しき生活』 の中にお書きになっていられるが、まことに美しい話である。

 何故美しいか。どこにも不完全、よごれを観てい給わないからである。既に、そのまま完全であることを観ないことが 「自我」 なのである。ここには自我ははじめから無いのである。それが生長の家人類光明化運動そのものなのである。(1998.9.30)


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