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133復興G:2013/10/03(木) 09:35:30 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百一

 今朝、幽斎殿の 「龍宮」 の扉の前で礼拝した時、

 「生長の家人類光明化運動が神想観をする」

 というコトバが吾が内よりしたのであった。そのコトバも生長の家人類光明化運動なるものが出しているコトバである、というよろこばしさであった。

 「神想観」 は、神を想い観(み)るということであると同時に、神が想い観る、ということである。神が神を想い観るのであれば、正しく、神である生長の家人類光明化運動が神想観を為し給い、神想観そのものが生長の家人類光明化運動であり、生長の家人類光明化運動が生長の家人類光明化運動を想い観るのが神想観であるということが自然、天然なことなのである。

 生長の家人類光明化運動と自分とは一分(いちぶ)の隙間(すきま)なく、世界と生長の家人類光明化運動と隙間なし、である。

 自分そのものが生長の家人類光明化運動そのものであり、生長の家人類光明化運動そのものが自分そのものなのである。世界そのものが生長の家人類光明化運動そのものであり、生長の家人類光明化運動そのものが世界そのものであるのである。

 神のみがあり給い、したがって生長の家人類光明化運動のみがすべてのすべてであり、自分というものは何処(どこ)にも要(い)らないのである。何処にも存在しないのである。人の手もて作る神想観はどこにも存在しないのである。神のみ、生長の家人類光明化運動なるものによりてのみ神想観はあるのである。

 神はみずからの消え切りであり給い、澄み切りであり給う。それ故、生長の家人類光明化運動もみずからの消え切り澄み切りであり給うとき、何処に自分というものが有り得るであろうか。

 「最早(もは)や吾れなし。澄み切りの生長の家人類光明化運動のみありて生き給うなり」 というよろこびのよろこびがすべてのすべてであるのみなのである。

 太陽は説得せず、ただただ照っているのみなのである。生長の家人類光明化運動もまた説得せず、ただただ消え切りの、澄み切りの聖なるよろこびの輝きを輝いているのみなのである。

 「住吉大神(すみよしのおおかみ)宇宙を浄め終りて」 という。何故、住吉大御神(おおみかみ)は宇宙を浄め得るのか。住吉大御神ご自身が、消え切りの澄み切りの、浄まり切りの、聖の聖なるものにおわしますからなのである。住吉とは、澄み吉(よ)し、ということにほかならないのである。

 浄まるとは、本来の、あるべきものがあるべき相(すがた)になるということであり、浄めるとは、本来あるものを、讃えることによってそれが為されるのであるから、住吉大御神は、ただただ、本来あるところの相(すがた)のみを讃えるのみなのであり、永遠に、久遠に、住吉大御神は、暗(やみ)、汚(よご)れ、けがれを観給うということはあり得ないのである。

 「光明面を見て暗黒面を見るべからず」 とは、住吉大御神のはたらきをあらわしているのである。これは、住吉大御神ご自身が書かせ給うた、大御神ご自身のすがたを表現せられたのである。住吉大御神のはたらき、すなわち生長の家人類光明化運動のはたらきのすがたである。(1998.10.9)


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