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復興G
:2013/09/03(火) 06:14:09 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
七十六
釈尊が 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 と宣(の)り給うたのは 「運動の成仏」 ということでもあったのである。
生長の家人類光明化運動はそのまま成仏の相(すがた)なのである。成仏とは成っている仏、鳴りひびいている仏、説法しつづけている仏ということであるから、生長の家人類光明化運動はそのまま仏であり、鳴りつづけであり、神そのものであるのである。
人類光明化運動そのものに対する合掌の相(すがた)こそ最もふさわしい私たちの相であるということはまことに厳かな有り難さなのである。
人の手によってはじめられた運動ではないということは、 「人事を尽くして天命を待つ」 ということ以前の運動であるということである。
「今」 によって起こった運動であるとは、運動そのものが時空超脱であり、因縁を超えて立っている運動であるということなのである。何ものにも依らずして、みずから在りて在る運動であるということである。久遠の今なるものが立った運動であるということである。
立教とは、教えなるものが自ら立ったということである。真理みずからが立っていることが立教ということなのである。そのまことの立教なるものを大聖師谷口雅春先生は自己の内に拝み給うたのである。
「生長の家は久遠の昔からある」 ということは 「生長の家の立教は久遠の昔からある」 ということであり、 「生長の家人類光明化運動も久遠の昔から在りつづけである」 ということである。 「天地(あめつち)とともに窮(きわ)まりなかるべし」 とは生長の家人類光明化運動のことであるのである。 「窮まりなし」 とは時空みずからが超脱され、脱落していることなのである。
人間は光の子にして常に光の中にあれば
暗きを知らず、
躓(つまず)きを知らず、
罣礙(さわり)を知らず、
かの天人が天界を遊行するが如く
また、海魚が水中を游泳するが如く
光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。
とは、生長の家人類光明化運動の遊行している相(すがた)そのものなのである。
未(いま)だかつて生長の家人類光明化運動は、暗(やみ)と出逢ったことも、躓(つまず)いたことも、障礙(さわり)をされたことも無いのである。空中遊歩の神人(しんじん)なるものがこの運動なのである。空中とは真(まこと)の無、無の無の無なることそのことなのである。空(くう)なるものが空であるとき、真(まこと)なるものが真(まこと)なのである。真空にして妙有している運動が生長の家人類光明化運動なのである。
尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の説法の充満そのものが生長の家人類光明化運動なのである。
この運動は 「今」 起(た)った運動であり、すべてのすべてなるが故に、自分自身のいのちそのものなのである。
今、ここ、吾れ ひとつに鳴っている久遠なる 「今」 こそ生長の家であり、人類光明化運動なのである。自分の生活において、この運動と自分との分離はどこにも存在しないということは、まことに厳かな事実なのである。神は渾(すべ)ての渾て。生長の家人類光明化運動も渾ての渾て。自分の自分なるものも渾ての渾て。久遠の今なるもの、中(みなか)なるもの、ひとつなるもの、大調和(みすまる)の宇宙(くに)なるものの澄み切りの實相の消息である。(1998.9.14)
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