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63復興G:2013/08/09(金) 07:05:58 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十一

  「便所に宿る神」 ではなく 「便所が神なのである」 と大聖師のお言葉があった。

  「生長の家人類光明化運動」 は神が導き給うのではないのである。 「生長の家人類光明化運動」 が神なのである。

 また、 「生長の家人類光明化運動」 という言葉、文字そのものが神なのである。

 神は自己展開あるのみであり給うから、 「生長の家人類光明化運動」 そのものが生きものであり、みずから、おのずから自己展開するのである。

 神すなわち實相は、みずから顕れる力をみずからに蔵しているのである。

  「生長の家人類光明化運動」 のどこにも人間力は要らないのである。

 しかも 「生長の家人類光明化運動」 自体が 「私は無いのです」 との消え切りの澄み切りなのである。 「魚行きて水濁らず」 なのである。

 神社に神を祀るのではないのである。神社そのものが草木一本一本に至るまで神なのである。

 偶像崇拝とは、神でないものを神として拝むのであって、まことに神であるから神であるというのである。

  「生長の家人類光明化運動」 の運動方針そのものが神なのである。それが書いてある印刷物が神であり、一字一字が神であり、實在宇宙なのである。そして、それみずからが 「私は無いのであるしとの消え切りの、澄み切りなのである。

 「實相」 という御額そのものが神なのである。實相という字が實相であり、神なのである。實相という字は、實相を指し示す、シンボルではないのである。實相という字が、實相そのものであり、神そのものなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 が神そのものであるということにおいて、 「吾れ神を選びしに非ず、神吾れを選び給いしなり」 ということは、 『吾れ 「生長の家人類光明化運動」 を選びしに非ず、 「生長の家人類光明化運動」 吾れを選び給いしなり』 ということなのである。

 自分というものはどこにも存在しないのである。自分はどこにも要らないのである。自分の要らない運動を聖なる運動といい、神なる運動というのである。

 「運動のみ渾(すべ)ての渾て」 と言い得るものであってこそ神の運動なのである。

 「神の外にあるもの無し」 とは 「運動の外にあるもの無し」 ということでなければならないのである。運動以外に自分というものが要るというのは神の運動、神なる運動ではないのである。

 運動と自分との分裂ということは有り得ないことである。運動が神であり、自分というものは無いからである。

 「神と偕(とも)に生くる」 とは、神のみが渾ての渾てであって、自分というものは無いということなのである。

 「無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)」 とは、自分が無いということである。 「無一物」 の一物とは自分のことなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 という言葉は、 「南無妙法蓮華経」 という言葉と同じように、言葉そのものが、神であり、渾ての渾てなのである。

 渾ての渾てなるものが渾ての渾てしている、完成なるものの純粋なる創造的持続が 「生長の家人類光明化運動」 なのである。

 それ故、達成されない 「目標」 というものは無いのである。 「目標」 そのものが神であり、渾ての渾てであり、 「目標」 以外にあるもの無しであるからなのである。 「願い」 そのものが神であり、神は渾ての渾てであり給い、成就そのものであり給うのである。(1998.8.20)


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