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復興G
:2013/07/08(月) 07:45:21 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
十九
「与える生活を生きよ」 とは、求めることの要らない存在である相(すがた)を祝福した言葉なのである。それは、既に、内に、すべてが満足、自足している存在、即ち神と同じ相である、實在の實相の自性円満を祝福した言葉なのである。
神は求め給わない。神は外という因縁を、自分が自分である原因なるものを求める必要のない、みずから在りて在るご存在にましますのである。
求める必要のない存在でなければ、与えるということは成り立たないのである。
宗教に求める必要なく、行に求める必要なく、人に求める必要なく、心に求める必要なく、一切の外界、一切の現象無しと斬ったそこに輝く、内なるものの展開あるのみの生活、即ち 「与える」 生活がここにあるのである。
それ故、感謝を表現する 「ありがとうございます」 の 「ありがとう」 という言葉は、貰う言葉ではなく、与える生活とは矛盾しない言葉でなければならないのである。古来より、言霊の解釈によれば、 「アリガトウ」 の 「ア」 は天照大御神の 「ア」 であり、 「リ」 とは、その天照大御神のいのちのひかりがすべてを貫いて、六合照徹し給う、鋭利の 「リ」 であり、 「ガ」 とは真我のことであり、 「ト」 は止まることを意味し、 「ウ」 は生み出すこと、創造、生長を表現しているのである。即ち 「アリガトウ」 とは、天照大御神が我れとなって止まり、そこより無限の生み出しが行われて行くことを意味しているのである。これは天照大御神が、我が内にましますことを意味しているのであり、神は何ものをも求め給わないのであり、したがって 「アリガトウ」 の言葉には、求めること、外から与えられたものに対する要素は、どこにもないのである。
「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 に於いて、 「住吉大神すべてを浄め終りて天照大神出でましぬ」 と、完了形になっていることは、既に、今ここに、すべてとなって天照大御神が顕れ給うている世界に変貌していることが讃えられているのである。明るく丸い 「高天原(たかあまはら)」 そのものである、天照大御神―生長の家が、ここに全面的にあらわれていること、全宇宙が生長の家であることが明らかにされている宣ごとなのである。
生長の家の根本は感謝である、ということは、 「ありがとう」 が本体であり、 「ありがとう」 とは天照大御神のおすがたそのものであるから、 「天照大神出でましぬ」 とは、天地一切万物として、 「ありがとう」 = 「感謝」 が輝き顕れていることを讃えていることになっているのである。
二十世紀のうちに、この宣り言(のりごと)が発せられたということは、来るべき新しき世紀は、万物の中に 「天照大御神」 即ち 「ありがとう」 即ち 「生長の家」 が、既にそこに顕れ輝いていることを観じ礼拝し、祝福し、讃嘆して行く世紀の幕開けを象徴していると拝察されるのである。
「与えよ、さらば与えられん」 という言葉において、あくまでも 「与えよ」 が先になっているところ、与えるべき、貰う必要のない存在が先に拝まれていることに、深々妙々なる厳粛さがこもっているのである。これは何も、 「栄える会」 専用の言葉ではないのであって、富だけのことではなく、人間は人間ではなく、神である、求める必要のない絶対的存在なる實相の礼拝の極致の言葉であると拝察されるのである。(1998.7.19)
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