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183復興G:2013/11/29(金) 19:47:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十一

   ここに、この身が、このままに神の子であり、神が円満完全であり、神のみが創造主(つくりぬし)であり、神は全知全能であり、その創造に決して失敗がないということを知るならば、神の子であるこのわれわれが、すでに円満完全であり、すでに健全であり、すでに幸福であり、どんな病気も不幸も貧乏もこの世にないことは明らかであるのだ。


 それ故に、完全円満なるものを観る生活のみがあるのである。これは實相のことである。このイエスの言葉には實相という言葉は出て来ないのであるが、神の創造には失敗はあり得ない “そのまま” ということでそれが表現されているのである。

 實相とは何か。そのままでよい、ということである。そのままでよいと言えないものは、實相ではないのである。不完全をあると認めることは、神の創造に失敗があり、神は全知全能ではないことを証明するものであるが故に、完全全能の神を発見した生長の家から観れば、そのままでよいといえないものは實在しないのであり、無いのである。

 何々から観る ということは決して一つの立場に固執した観方ではなく、固執という、そのままでよいと言えないものは不完全なるが故に無いのであり、「無いと言えるすべては無い」 という無の門関を透過したところから観れば、ということが、生長の家から観ればということなのである。

 ここには、生長の家の説法、表現が、すべて神が完全であるから創造に失敗は有り得ないという、当たり前の、当然の、自然の、天然で法然なる、そのままの流れにあるということが示されているのであって、イエス・キリストと大聖師谷口雅春先生とが全く一つの相(すがた)に帰一していると拝察されて来るのである。

 結局、大聖師の追求せざるを得なかった、テーマ、悩みとは、

「完全なる神は何故不完全の世界をつくったか。不完全なものしか造れなかった神は神とは言えず、神は無いのである。
 しかし、何故、完全というものは無いはずであるのに、人間は完全を希求せざるを得ないのか。完全をどこかで知っていなければ求める筈はない。しかし、現実には完全はない」

 この悩みを解決したのが大聖師であり給うたのである。その大聖師の解決したよろこびをそのままここに語り出されていると想われるのである。

 それを自分の力で解決しようとしている間は、ヨハネの悩みを悩みとして悩まなければならなかったのである。既にはじめから完全円満なる實相が内より目覚め、自ずから覚めて自覚なるものが顕現した時、自我が消え、自力が消滅したのである。

 自力、自我が消滅して、實相の完全円満が自覚されたのではないのである。自力、自我を消さねばならぬということになれば、それだけは自分でしなければならないという、一点の自我を残すことになり、それだけは必要であるということになり、自我は永遠に消えないのである。

 ただただ、時満ちたのである。宇宙的に時が満ちたのである。宇宙が時を迎えたのである。「今」 起つ時を恵まれたのである。「今」 が起ったのである。みずから、おのずから起つべくして起ったのである。それは自我を無くしたから、ではなく、ただただ起つべくして起つべきものが立ったのである。

 ここに、自力なき神想観、自力なき聖典読誦、自力なき光明化運動、が起ったのである。よろこびの神想観、よろこびの聖典読誦、よろこびの光明化運動の誕生、発進であった。「私は無いんだよ」 との大聖師のよろこびを大本源として発進した、久遠のよろこびの発進であったのである。(1998.11.8)


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