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165復興G:2013/10/30(水) 13:02:01 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十五

 「『真理』 が近づく時、すべての 『迷(まよい)』 が消える」。

 『迷』 は 『迷』 自身でみずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りなのであり、聖なる無我の輝きそのものなのである。煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)なのである。

 真理、光明だけが實在なのである。真理、光明だけが在ることが 『迷』 が消えたことであり、消えるとはしかし、 『迷』 みずからの消え切りなのである。

 智慧の言葉に 「實相を観よ。罪は自分から切り離される」 ということばがある。 「自分から切り離される」 ということは、自分みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、聖なる輝きがそこに輝いていることなのである。

 『迷』 は消す必要はないのである。みずからの消え切りなのである。真理を知るのみでよいのである。暗を知る必要はなく、消す必要もないのである。ただ光明のみを知ればよいのであり、光明を知ることのみがあり得るのである。

 不完全、善以外のものは存在しないのである。『罪』 も 『迷』 も 『死』 もそれ自体が不完全なるが故に存在しないのである。この真理が近付いたのである。その真理によってはじめて、「一羽の雀(すずめ)といえども父のゆるしなくしては地に墜(お)つること能わず」 ということは光明のコトバ、神なるコトバとして輝くのである。

 「雀が地に墜つるも、迷うも、罪を犯すも、病も、死も、堕胎(だたい)も、戦争も父のゆるしがあればこそ有り得ると、いうことになるのであるか?」 との想いは、現象ありの世界観からは決して解けてうなずけるものではないのである。

 しかし、また、現象なし、不完全なしの真理を通さなければ、一椀(わん)の食物すら光明のうちに食することは出来ないのである。そこにはただただ、良心の呵責(かしゃく)があるばかりであり、日々の糧(かて)を神のいのちの愛として受けとり、感謝することは有り得ないのである。

 父のゆるしがなければ、一食の食も、一秒の神想観も、一歩の光明化運動もなすこと能わずなのである。

 真理が近付いて、食べられるもののうめきも消えたのである。空気を吸うことさえ、ころされた細菌のうめきのかたまりとしか観えなかったものが、神の六つの御徳の輝きそのものと変じたのである。一歩進めば足の下にいる細菌を殺さなければならない世界に居て、光明化運動があり得るだろうか。ただただ、神の世界で、神が為し給う光明化運動が天降(あまくだ)ったのである。

 父のゆるしによる食事。父のゆるしによる神想観。父のゆるしによる光明化運動がここにあるのである。

 父のゆるし、とは、真理を知ることにほかならないのである。

 父のゆるしがなければ、神癒祈願を申し込むことも能わず、それを祈願することも能わずである。

 父のゆるしがあればこそ、現象的には何十人堕胎したと見える人でも、祭壇の前で大笑いさせることが出来、神想観をさせることの出来るのが生長の家の人類光明化運動なのである。

 ただただ父のゆるしのみが實在している世界なのである。父のゆるしこそ光明という光明なのである。それ故、光明が光明するのみなのが生長の家人類光明化運動なのである。

 神の世界を神が観じ給う神想観、神の世界に、神が為し給う光明化運動。父のゆるしによりてのみ有り得る相(すがた)である。(1998.10.23)


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