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15
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復興G
:2013/06/30(日) 07:20:18 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
十一
運動の目標は数によって表現せられているが、そもそも目標数という数はどうして決められたのであるか。
新体制をつくる時に、全国を組織化するに当たって、何を基準にするかという時に、信仰というものは全く各人それぞれの個中の消息であって、外から計量し、判別することは出来ない。そこで数というものに着目したというのである。これは、新体制の生みの親である山口悌治先生が常々話されていたことである。その数によって、あそこは発展しているとか、していないとかを判定することにしたのである。そして、その頃の国会を動かすためには、このくらいの数の国会議員をつくらなければならない、その国会議員を出すためには、この位の選挙の得票数がなければならない、その得票数を全国に割り当てるというようにしたのである。そして、たしか、その時に算定した数は全国で五百万の票の獲得数であったのである。このことが基準となって 「神誌」 や 「聖使命会員」 や 「ご講習会」 の目標数が各県に決められていったのである。要するに、目標数の数の根拠というものはそこにあったのである。
果たして、これが人類光明化運動にふさわしい目標の決め方であったかどうか。政治をもとにしたということがふさわしかったかどうか、ということも省察してみる必要があるかも知れないと想われるのであって、今ごろになって根本聖典である 『生命の實相』 の全読をあらためて呼びかけなければならない、というような状況であってみれば尚更のことなのである。また、来たる二十一世紀は 「心の世紀」 「宗教の世紀」 と言われていることは、あるいは 「個中の消息を重んずる世紀」 ということになるのかも知れないということも想えて来るのである。
この数の決め方と、谷口輝子先生が伏見の稲荷神社に参詣されて 『生長の家』 誌の誌友が一万名になったら、稲荷神社をつくりますとお誓いされた時の、この一万という数の決め方とはどこか違っているように想われるのである。これは政治的な状況というよりも、内から自然に湧き上がって来た願いとして表現されたお言葉としての誌数であったと拝察されるのであるということは、それは何ヵ年計画で、昭和何年に達成するとかという、年限をおっしやっていないことからもうなずけるのではないだろうか。この目標は、天からの天降りであり、内からの自然なもよおしとして生まれているのではないかということを心新たに想うのである。
「汝、誓う勿れ」 ということは必ずしも目標を立てるな、計画するな、ということではないにしても、 「吾が内に神が今ここに、そして天国は今ここにある」 という、宗教的個中の消息の雰囲気とはおのずと様相を異にしていることはたしかなことであるであろう。釈尊が 「天上天下唯我独尊」 と宣り給い、 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と宣り給うている偉大なる個中の消息のことも想い起こされるのである。天皇の六合照徹光明遍照も中心(偉大なる、あるいは絶対なる、すべてのすべてなる個)の消息と言わなければならないのではないか。神は偉大なる一人であり給い、 『古事記』 の独神(ひとりがみ)のことも想われて来るのであるが、これらはすべて幽の幽なる入龍宮不可思議の境涯の消息なのである。
尊師谷口雅春先生は宗教は全くの個中の消息である、とお説きになられていることは周知の通りである。神想観は個中の消息、ということが出来るであろうし、 「三界唯心所現」 の理からしてもそれは肯けることであり、 『甘露の法雨』 の 「内にのみ神の国はあるなり」 とは個中なるものの妙々不可思議境なのである。そして、新体制を発案した山口悌治先生も、宗教は各々の個中の消息である、ということを認めた上での発案であったということだけははっきりとしており、あの組織の中に居られながら悠々と 『萬葉の世界と精神』 という和歌という個中の消息を追いつづけ、讃嘆をつづけることが出来られたのであった。ここには国を憂え、 「自未得度先度他」 の急迫したとも見える状況の中に、不思議なゆとりを生きている生命の妙々さを想わずには居られないのである。
谷口家のある渋谷区がきわだって組織的な発展があったかどうかということも問題にならなければ、隣保班をあれほど強調された山ロ先生の住んでおられた目黒区の鷹番町がきわだって運動が発展したかどうかということが問題になったということもついぞ聴かれないのであり、それが自然なことに想われるのである。( 『弟子像』 ―私の中の山口悌治先生―参照) (1998.7.11)
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