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復興G
:2013/07/26(金) 07:31:16 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
三十七
聖典 『生命の實相』 の全読ということについて。
これは全巻にわたって拝読するということは勿論のことであるか、必ずしもその回数ではないのであって全きものとして拝読、拝誦するという意味なのである。
『生命の實相』 は自性円満(そのままでえんまんなこと)を讃えんがために、即ち全きもののために、全きものによって書かれたもの、即ち、聖なるものが聖なるもののために書かれたものであるが故に、これは聖典とお呼び申し上げ奉るのである。
尊師谷口雅春先生が原稿をお書きになっているお姿を霊視出来た青年のことが 『生命の實相』 の第一巻に書かれていることは周知の通りである。光りの中で光りがお書きになっているということは、著者である尊師が読者を如何に観ておられるかということをあらわしているのであって、もしも、迷っているものを相手に、罪、けがれを相手に、それを打ち消すために、書いておられるのであれば、尊師は迷いや罪けがれの暗の中に居給わなければならない筈である。そこには、ただただ光りの中で光りとして坐されてお書きになっている姿しかなかったのである。
これは、全きものが、全き世界の中に居て、全きものを讃嘆し、祝福、礼拝され給うて聖典 『生命の實相』 が誕生しているということを意味しているというほかはないのである。
それをそのままのお姿で拝受し、拝読させて頂くところに全読ということの荘厳なる意味があることを想うのである。
『生命の實相』 自体が、“物質無し” とみずから 「私は無いのです」 と、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのであれば、読者もまた 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りのよろこびそのものとしてそこにあり、ともに澄み切りであるのであって、ここに全きもの、自分の要らないものの姿としての全読なるものの姿があると言わなければならないのである。
斯くの如きことの如何にして起こり得べきか。今、ハイと、はじめのはじめなる、そのままのいのちをよろこぶことによって忽然(こつねん)として起こるのである。
常に時は今である。この 「ハイ」 を生きることによって、物質の、インクと紙との集合にすぎないものとして見ゆるものが、全きものへの無限の祝福なる神の愛の輝きそのもの、霊なるものと変貌するのである。まことの、甘露なるものの法雨と化するのである。
手にした 『生命の實相』 を愛の霊なる光りとするか、物質のかたまりとするかは、はじめのはじめなる全きいのちを 「今」、ハイと受けるか否かに掛かっていると言わなければならないのである。
「七回読め」 と言われたことがあったか、これは七即ち完成なるもの、完全なるものの展開の姿として聖典拝誦の姿があることを意味しているのである。
このような全きものの消息においては、聖典の中の、 「暗(やみ)」 という文字も 「光り」 という文字も、光りそのものなのである。その文字の配列から来る意味以前の問題として、聖典を手にするだけで、既に聖なる光りに浴しているのである。もはや聖典は文章の意味以外において光りの聖典であると拝察されてくるのである。(1998.8.6)
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