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復興G
:2013/11/05(火) 20:30:51 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
百二十一
わたしは断食をしてみたり水行をしてみたりしてみたけれどもわたしは神がどこにあるか、神の子がどこにあるかわからなかった。
それ故、神想観するのも、感謝するのも、愛行をするのも、神に生かされ、愛されるための準備のためのものではないということである。断食するのも、神を解るための、神に生かされるための、ものであることにおいてふさわしくないのである。
この断食に比べて、イエスの荒野での四十日、四十夜の断食は、ヨハネの洗礼を受けた時に、霊(みたま)鳩の如くにイエスに天降ったその後の相(すがた)であって、これは天なる父と偕(とも)に、神がすべてとなって、神が為し給うている相(すがた)となっているのであり、これは準備のためのものではなくして、神の天地創造と全く同じ出来事としてこの姿をあらわされているということである。これは手段、目的、すなわち未来のためのものではなく、 「今」 が、神が、完成なるものが生き給うているすがたであるということである。
その故に、生長の家の神想観は、神想観そのものが神の創造のお姿であると同時に、神想観そのものが創造されたるものでもあるのである。神想観は 「今」 そのものであるからであり、「吾れ今五官の世界を去って」 という吾れが 「今」 なることこそが神想観なるものの創造性そのものなる性格をあらわしているのである。
それ故、同じ言葉をお使いになっておられても、因縁を超え、一切を超えて発せられているお言葉は、その意味以前の問題として言葉の姿、文字、ひびきそのものが光りの荘厳なる量なのである。それは無量の量であり、無量光なる無邊光(むへんこう)そのものなのである。まことにコトバは神であり、神はコトバであり給うことそのものなのである。
このいのちは、断食どころか、出生以前より、父母未生(みしょう)以前よりありつづけている創造のいのちなのである。
釈尊は 「成仏してより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)である」 と宣(の)り給い、イエス・キリストは 「吾れはアブラハムの生まれぬ先よりあるなり」 と宣り給い、大聖師はその 「釈尊より、キリストより以前から吾れは、天照大御神と偕にあるものなり」 と宣り給うていられるのである。久遠の釈迦、キリストを自在に生み給うたところの久遠の久遠なるものに立ち帰られたところから 「自在方便説法」 され給うて、この戯曲のセリフは生まれているのである。
かつて、龍宮住吉本宮建立のとき、住吉大御神の 「みたましろ」 はどこの神社から、みたまうけしてまいりましょうか、という問いに対して、大聖師は
「それはどこの神社からも、貰い受ける必要はない。私が直接、龍宮に行って住吉大御神をお迎えして来る」
とのお言葉があったとのことである。大聖師の説法、おことば、いずこから出で来たるか、その消息を伝えているものと拝察申し上げるのである。
大聖師のお言葉はすべて、龍宮本源より直接お持ち来たり給うたものであればこそ、すべてを生み出し給うコトバなのである。釈尊やイエス・キリストの戯曲に登場させ給うているこの久遠實成(くおんじつじょう)のお二方をたしかに生み出し給うたことの象徴をここに拝するのである。(1998.10.29)
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