したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

web誌友会参考文献板

180復興G:2013/11/18(月) 20:09:26 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十九

   今、太陽は明るく照っている。そのままが日光の中であるように、われわれはこのまま神の生命(いのち)の中に存在を保ち、生き、神の生命を享(う)け、それを生きているから、われわれ自身が初めからこのまま 「神の子」 なのである。その住む世界がこのまま 「神の国」 である。


 太陽は明るく照って、そのままが日光の中である。そして、太陽は日光を自分みずから出しているのである。太陽と日光は同じなのである。日光は太陽であり、太陽は日光なのである。神と人と神の国とはひとつなのである。

 生長の家のみ教えなる太陽は久遠の昔から照っている。そのまま神の子はみ教えの中なのである。み教えが先か、いのちが先か。何故、これを分ける必要があり、それを知る必要があるのか。

 太陽はただただ照っているのであり、いのちはただただいのちしているのである。そこには自分というものは無いのである。ただただその通りなのである。

 想えば、み教えの内も外も無いのである。ただただひとつなるものがありて、伝える方と聴く方との相(すがた)となって、ひとつなるものが自己展開しているのである。説法しているイエスもひとつなるものであれば、聴いている聴衆もひとつなるものなのである。

 ひとつなるものの展開であるが故に、ひとつがひとつであることがそのまま中心帰一なのである。ひとつなるものの展開したそのままに、ひとつであるのである。展開しているいのちそれ自体の内にひとつなるものがあるのである。

 内なるひとつが渾(すべ)ての渾てであり給うが故に、イエスのすべては内に向かっているのであって、外は既に久遠の昔より、アブラハムの生まれ出でぬ前(さき)より既に十字架に架けられているのである。

 一切は内より出でて内であるのみなのである。すべてのすべてなるものを内といい、神といい、神の国というのである。

 今ここに神の国を生きているいのちにとっては、不完全はどこにもないのである。不完全という概念そのものが存在しないのである。イエスは水の上を歩く前に、神の国を歩き給うていたのである。完全なる世界に完全なるものとして歩き給うていたが故に、水の上を歩き給うという自在なる完全の一分があらわれたのである。

 果たして、イエスが水の上を歩き給うたことは善であったかどうか。病を治したことが安息日に仕事をしたということは善であったか否か。

 イエスは善悪を問題にし給うたのではないのである。善のみなる神と神の国を生き給うたのである。それ故、パリサイ人に善悪をきめて貰う必要はなかったのである。

 パリサイ人は善悪を見ているのである。しかしイエスの前にはその善悪を問題にしているパリサイ人もなかったのである。それ故、無いようにふるまわれたのである。今ここに神の国、それ以外何ものも存在しない善のみの国を生き給うているすがたがあるのみなのである。

 因縁、現象の世界から見れば、何故、イエスの前に、病人が現れるか。パリサイ人があらわれるか。右の頬を打つものがあらわれ、上着をとるものがあらわれ、十字架につけるものが現れるのか。それはすべてイエスの心の影であるということになるのである。

 しかし、それが正に影であり、影にすぎないことを知っていたイエスは、やはり 「アブラハムの生まれぬ前(さき)より」 心と心の影である全現象界を十字架につけ、抹殺し給うていたのである。(1998.11.6)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板