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187復興G:2013/12/03(火) 09:27:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十五

 幽斎殿(ゆうさいでん)での感謝行を終えて下に降りて来て、食堂で話をしている時に湧いたよろこびがあった。

 生長の家人類光明化運動は神である。本源絶対なる神が色々なはたらきをされるその御はたらきにつけたのが神名であれば 「住吉大御神(すみよしのおおみかみ)」 「塩椎大御神(しおつちのおおみかみ)」 とお呼びする意味において 「生長の家人類光明化運動」 ということである、という、それはなぜかよろこびであった。

 生長の家人類光明化運動は、先ず、それみずからに、久遠不滅(くおんふめつ)、金剛不壊(こんごうふえ)なる体(たい)を具(ぐ)しているということである。これがまことの具体ということである。實在の實相なる体を具しているということである。

 この金剛不壊の具体なるものは、自己展開し、みずから顕(あらあわ)れざるを得なくて顕れたのがいわゆる人類光明化運動なのである。

 それ故、生長の家人類光明化運動の自発的活動態勢を、という言葉は、人類光明化運動の展開は、運動なるものそれみずからの、自発によってあるということなのである。神は 「光りあれ」 と宣(の)り給うその自発なるものを表現していたのである、ということである。

 「“自発的活動態勢” の “自発” の “自” は、“自転島(おのころじま)” の “自” ということなのである」 と言った先達があったのを想い出すのである。この人は生長の家人類光明化運動そのものが神の相(すがた)をしていること、久遠不滅、金剛不壊なる体(たい)を具有(ぐゆう)しているその、實体にふれていられた魂であったのではないか、と想われて来たのであった。

 合わせて、再び、人類光明化運動の 「光明とは何か」 ということをさらに深く想わせて頂けたような気がするのである。追求しても追求してもし切れないもの、讃えても讃えても讃え切れないもの、という想いとよろこび、そして光栄というようなものを想ったのである。

 「光明とは何か」 という言葉は、如何にも疑いのコトバであって、満たされたものの、解けたものの言葉ではないように見えているが、今の場合は、嬉しくてその自分自身の中にある、實在なる、神なる、光明化運動に語りかけ、讃えかけ、拝(おろが)みかけているという気がしているのである。

 「神の国は汝らの内にあり」 とは

 「生長の家人類光明化運動なるものは汝らの内にあり」 ということであると想えて来るのである。そして、それが神であるが故に、神である自発なるものに自発されて自分はここに生かされてあり、すべての運為(うんい)が存在するのである、ということであった。

 「光明とは何か」 と問うていることそのことが、光りの實体を有し、光りを放(はな)っている姿であるのであるということである。

 「實在とは何か」 ということも、 「感謝とは何か」 と深く参ずるのも、その姿そのものが光りのすがたであるのだ、ということも想えて来るのである。

 「自転島(おのころじま)」 とは、地球をあらわし、全宇宙の實相を表現しているとも言えるであろうが、それがそのまま如意宝珠の姿であり、潮満(しおみ)つ、潮干(しおひ)るのはたらきを具有し、自(みずか)ら、自(おの)ずからなるはたらきそのものを具有している、その意味をもって 「自発的活動態勢」 ということが新たに想えて来たのであった。(1998.11.12)


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