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155復興G:2013/10/17(木) 22:08:27 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百九

 現象とは、 「こうありたい」 と願う心とその内容である。それは未来のことである。未来そのものが無いのである。時間そのものが無いのである。

 實相とは既に 「在る」 ものである。それ故にこそ神想観によって観じられることは、すべて 「……である」 ということであり、その念ずる言葉もすべて 「……である」 という言葉なのである。

 「……であろう」 という未来を予想した言葉は決して有り得ないのである。實相を観ずるのが神想観であり、神の世界を、神が観じ給うとは、實相の世界を、實相が観ずることにほかならないからなのである。

 ないものを観ずるということは有り得ないのである。 「観」 という言葉が出て来るということは既に 「在る」 ものがあるからなのである。

 神想観は、神が想い、神が観(み)給うのである。なぜ、想うことが出来るか。それは既にあるからなのである。その既にあるものが實相であり、観ずることの有り得る唯一の拠所なのである。

 神想観は 「今」 である。吾々は、過去において神想観するのか、未来において神想観するのか。過去なく、未来なく、現在無きことを観ずることが神想観であるのである。なきものをなしとしたところに 「今」 があるのである。 「今」 がすべてであり、 「今」 が神であり、 「今」 が神想観なのである。

 神想観の 「吾れ今」 がすべてのすべてなのである。 「今」 はすべてのすべてなるが故に、既に吾れはなく、 「今」 のみすべてのすべてなのが、神が想い観給うことの内実なのである。

 「今」 が立ったのが、神想観なのである。

 「時が来た」

 と 「完成(ななつ)の燈台の点燈者の神示」 の冒頭には示されているのである。それは 「無時の時」 なのである。 「時、是(こ)れ時に非ず、是れを時という」 態(てい)の 「久遠(くおん)なる時」 即ち 「今」 なのである。それ故、

 「今すべての病人は起つことが出来るのである」

 と示されているのである。この時とは 「今」 であったのである。 「今」 が 「すべて」 なのである。それ故、 「今すべて」 なるものは神であり、實相であり、完全であり、倒れている者は一人もいないのである。 「病人は起つことが出来る」 というのは方便なのである。

 神が、神の世界を観給う時、倒れている病人は一人もいないのである。それ故、 「すべては起つことが出来る」 のであり、既に立っているのである。成就そのものが、神であり、「今」 であり、「すべて」 であり、實相なのである。

 「病人是れ病人に非ず、これを病人という」 態の、吾れを取りまく天地一切のものは、吾れに真理を告げ給う観世音菩薩であり、尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり、生長の家の大神なのである。病んでいる人は一人もいないのである。それ故、

 「最早(もはや)、あなたにとって病気は存在しない時が来たのである」

 と示されているのである。なぜならば、自分自身もまた観世音菩薩であるからである。

 「最早(もはや)」 とは、最も早いことであり、「今」 ということなのである。その時、もはや、時間はみずから 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りであり、病気もまた、みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのもの、聖なる観世音菩薩そのものなのである。

 <つづく>


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