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復興G
:2013/07/18(木) 07:29:17 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
二十九
住吉の大神とは 「澄み切り」 を吉(よし)と實相を讃えることによって、本来のすがたを益々輝かせる大神という意味でもあるであろう。
「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 の中で唱えられる言葉
「畏くも宇宙の大神イザナギの命(ミコト)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう。その宇宙浄化の御はたらき現われて住吉の大神となり給う」
において、既に、實相の世界に居たまうイザナギの命が、これから浄めなければならないものを観給うということは有り得ないことなのであるから、そのみそぎ祓い、浄め給うはたらきが住吉の大神であるということは、住吉大神は、實相がそれみずから 「私は無いのです」 との澄み切りの輝きをますます祝福することを意味しているのである。實相みずからのますますの消え切りの澄み切りの輝きを輝かせる御はたらきが住吉の大神の御はたらきなのである。
イザナギの命(ミコト)が禊(みそ)ぎ祓(はら)い給うということは、イザナギの大神が、はじめのはじめに還ることを意味しているのである。そのはじめのはじめとは、高天原(たかあまはら)であり、神詰まります神、即ち、七柱(ななはしら)の身(みみ)」を隠し給う、幽の幽なる神の御姿に還ることを意味しているのである。イザナギの命が 「私は無いのです」 と澄み切りになる御はたらき、 「無い、無い、無い」 と、そして、その 「無い」 も 「無い」 と澄み切りの澄み切りに澄み切る御はたらき、そしてそこに澄み切るよろこびが輝き顕れる、それが天照大御神の出でましているお姿なのであると拝察されるのである。
天之岩戸(あまのいわと)隠れに際して、神々が咲(わら)いに咲った時に、出でまされたことは、天照大御神さまは、よろこびそのものであり給うことをあらわしているのである。
その 「無い無い」 との澄み切りのはたらきが住吉の大神の御はたらきであるからこそ、 「無い無いずくしの教え」 と言われている生長の家の大神が住吉の大御神であり給うということになっているのである。そして、その 「無い無い」 の象徴として建立されたのが 「無の門関」 であるところの入龍宮幽斎殿となっているのである。
ここにおいて、現象のみずからの消え切りは勿論、神御みずから、實相みずから、龍宮みずからもまた 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの澄み切りの輝きそのものを意味することとなるのである。
この故にこそ、實相と現象は渾然(こんぜん)一体なのであり、 「大日本神国観(だいにっぽんしんこくかん)」 において、 「實相・現象渾然一体、實相・現象渾然一体……」 と唱えられるのである。
即ち、 「實相」 もみずからの 「私は無い」 との消え切りの澄み切りのよろこびそのものであり、 「現象」 もみずからの 「私は無い」 との消え切りの澄み切りのよろこびであり、このよろこびの無限の輝きであることにおいて、ひとつのすがたであるのである。
私は尊師の 「私は無いんですよ」 との澄み切りのお声の中に、お声と尊師とよろこびとの不可思議なるひとつなる幸いに包まれていた時、私は天照大御神(あまてらすおおみかみ)のよろこびの袖(そで)にふれていたのであることを、今日もまた、入龍宮幽斎殿に於ける神想観実修中に、畏(かしこ)みて想わされたのであった。
まことに 「住み吉(よ)き世界に、住み吉きいのちとして生くる」 とは、 「私は無いのです」 との限りなき、みずからの消え切り、澄み切りに浴して生かされていることであったのである。
この住み吉き世界の到来である新しき世紀の到来こそ、もっとも美(うま)し世紀の到来なのである。そして、それは常に、常に、 『今』 即ち自分なのである。この 『今』 の中から、世紀が展開しているのである。この 『今』 は澄み切りの 『今』 であり、久遠の 『今』 なのである。(1998.7.29)
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