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13復興G:2013/06/28(金) 05:55:34 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九

 エマーソンがどこかで 「引用」 について書いていたことを、内容は憶えていないが想い出した。

 生長の家では引用するもしないも、聖典自体が 「物質無し」 と自分で消えてしまっているのである。

 神誌などに盛んに、聖典からの転載があるが、たとえば、尊師谷口雅春先生が生きておられて、直接ごらんになったならば 「私はここには別のを載せたかった」 とおっしゃるかも知れないのである。善い悪いは別としてそこには編集者の心が載せられているのである。

 これらすべて、五官の世界の出来ごとである。物質なし、肉体なし、本なし、に徹して實在の實相に帰っているとき、すべては自分自身の世界であり、自分の展開としてそこにあるのである。

 尊師谷口雅春先生が 「万教帰一要典」 をつくられ、聖書、仏典の言葉を用いられても、それは借りものの引用であるとはどうしても想われないのはなぜであるか。そこに書物みずからの死に切り、消え切りがあり、そこに實在なるものの聖なる輝きそのものがあるからなのである。

 現象を超えて實相なるもの、いのちなるものがそこに満ち、輝いている時、それは価値そのものであり、借りものでは決してなくなっているのである。「宗教のデパート」 と言われても、そこには無限の価値なる實在の實相が生きている絶対価値がそこには輝いているのである。

 万教帰一ということにおいて、万教は何故一に帰ることが出来るのであるか。それは一つなるものから発しているからなのである。一つなるものとは、現象即ち五官の世界を超えたところの實在の實相なのである。そこに帰って、自己と本源とが一つである、一つなるものの展開としてそこにある姿が万教となっているのであり、そこに、引用があっても、常の引用ではなく、『引用これ引用に非ず、これを引用と言う』 態(てい)の姿、輝きとなっているのである。

 著者が死に切り、書物が死に切り、読むものの澄み切りとなっているのが、聖典拝誦と言われているものなのである。

 聖なるものとは何か、ということである。聖なるものとは 「ひじりなるもの」 であり、ひじりとは 「日がいちじるしく輝く」 ことなのである。日とは神であり、自我が死に切り、消え去っている姿こそが聖なるものなのである。「物質なし」 と書物自体が死に切り、消え切っている。生長の家の書物はまさしく聖典と拝まれるのが自然なことなのである。

 現象としての自分に対立しているものとして見ているかぎりにおいて引用はやはり借り物であることから逃れることは出来ない。そこに引用するものの創造性から来るところの姿ではないものが出て来るのである。引用した文章が自分と対立的に存在しており、そしてそれと取り組んでいるかぎりにおいて、それは創造性の姿ではなく、依存のすがた、うめ合わせの姿、求めている姿であって、そこには生長と創造の輝きはないのである。

 五官を去り、現象を超え、物質無し、現象無しと去って本源に還ることによって吾々は、見るものすべて、その世界から借り物として引用するのではなく、本源よりの創造のすがたとして、そこに自己展開の解放を味わうことが出来、神と偕(とも)に創造するよろこびを味わうことが出来るのである。ここでは引用ではなく創造そのもののすがたと変わるのである。(1998.7.9)


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