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60復興G:2013/08/07(水) 06:18:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十九

 これから何をするとか、しないとかの前に、人間の存在そのものが、神であり、光明そのものであるという、人間存在の根本を決定したのが生長の家である。

 それ故、光明なるものと自分とがはなれていず、光明化運動と自分とははなれていない存在なのである。自分が世の光りそのものであり、自分が光明化運動そのものであるという生活が生長の家人の生活なのである。

 それ故に、一日の生活においても、この部分は光明化運動であるが、この部分はそれ以外である、というような、生活の中に光明化運動からはみ出た部分がないのである。それが 「聖使命菩薩」 の生活なのである。

「聖使命菩薩」 の 「聖」 とは 「ひじり」 であり、 「ひじり」 とは 「日がいちじるしく輝く」 という意味なのである。それは、何ものをもって来ても曇らせることの出来ない、日そのものであるのであって、一日の生活の変化によっては、わざわいされないところの、輝きっ放しの存在であることを讃嘆して付けられたのが 「聖使命菩薩」 という言葉なのである。

 一日の内に様々な姿をあらわして聖なるいのちは輝くのである。すべての人々のすべての姿は観世音菩薩であるとは、すべての人々の姿はそのままに尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)にましますということである。無碍なる光りをさまたげる何ものもないのであるから、聖使命菩薩の一日の生活の中で、その輝きをさえぎるものは何ものもないのである。

 様々の姿をとって一日の生活を送るということは、その様々の姿そのものが、観世音菩薩の説法であり、方便説法であるということである。

 イザナギの命(みこと)が筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界に禊(みそ)ぎ祓(はら)いをせられ給うたというのも、方便自在の説法であり、表現であるとみることが出来るのである。

 方便の方便たる所以(ゆえん)は、方便を表すものも、方便の姿も、言葉も、 「私は無いのである」 とのみずからの消え切りであり、澄み切りのよろこびの聖なる輝きそのものであるということである。

 説法者が消え切り、説法そのものが消え切り、言葉が消え切り、文章が消え切り、話を聴くものも消え切りであり、澄み切りの中に、忽念(こつねん)として生ずるよろこびの輝きの鳴りひびきが方便自在説法なのである。

 説くものなくして説き、聴くものなくして聴く、澄み切りの真空の中に妙有(みょうう)している姿こそが、智慧方便自在説法の現成なのである。

 イザナギの大神が禊ぎ祓いをされるはたらきが住吉の大神としてあらわれ給うていることは、如何にイザナギの大神が消え切りの、澄み切りのお姿の輝きであり給うかを表現しているのである。

 『古事記』 そのものが、方便的表現そのものであり、此の現象世界そのものが實相世界の方便的表現そのものであるのである。そして、 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものなのである。

 かつて、兵庫県の教化部(八祥(はっしょう)道場)を訪れた時、大聖師の初期のご揮毫(きごう)と拝察される横長の大きな御額を拝見したことがあったが、そこには

 「智慧方便自在説法」

 と書かれていたのである。

 ここに想われて来ることは 「生長の家人類光明化運動」 そのものが智慧方便の自在なる展開として出発しているのである、ということである。 「聖使命菩薩讃偈」 には、 「応化(おうげ)して仮りに聖姿を顕じ、広大の慈門を開き給えり、名づけて生長の家と謂う(い)」 と書かれていることは既に覚え書きした通りである。ここに 「聖の聖なる方便」 ということを拝ませていただくのである。(1998.8.18)


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