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71復興G:2013/08/16(金) 00:10:48 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十八

 再び 「光明とは何か」 について。

 光明とは絶対に暗くならないものということである。五感で見ゆるものはすべて、点滅、消滅常なきものであるが故に、光明とは五感を超えた實相ということである。

 實相とは神であり、はじめのはじめから在りて在るものそのものなのである。

 外国に指導に行った講師の話によると、神想観の指導で、光りかがやく 「智慧の海、……」 と唱えることを話しても、 「どうして、海でなければならないのか?」 と言う人あり、 「自分は海を見たことがないから海と言われてもそれは出来ない」 という人あり、 「自分の知っている海は、大西洋の荒い波の海であり、それしか知らない」 という人ありで、仲々神想観に念ずる言葉を納得して貰うということだけでも至難なことであるらしいのである。

 そもそも、しかしながら、私たちは神想観をしてから生まれて来たのではないのである。はじめのはじめから、生きとし生けるものとして生かされて、生長しているのである。このはじめからあるところの 「生かす力」 を “ひかり” というのである。

 この光りは、 「神光りあれと言い給いければ光りありき」 の光りであり、神によってある光りであり、人間が念じて、観じて造り出すものではないのである。

 はじめのはじめから生かされていてよいのであり、生かされていることをよろこんでいると、そこによろこばしき明るきものがここに生まれて来るのである。

 光り、光り、神はひかりであり、すべては光りである。はじめのはじめから光りである。祈ってからでもなく、生まれてからでもなく、はじめのはじめから生かされていてよいのだということを想っている時、その時、 「人間は神の子であり、光りであり、神そのものである」 と言いたくなるのであり、その言葉の通りを受け取ることになるのである。 「ひかりですよ」 と言われて 「その通りである」 とはじめのはじめからあるところの内なるものが共鳴するのである。

 光りははじめからあるのである。神によりてはじめのはじめからあるのである。光りとは “ひとごと” ではなく、自分のことなのである。天地のはじめよりあるものを光りというのである。今、すでにあるものを光りというのである。

 それ故に、その人のいのちのはじめのはじめを礼拝し、祝福することによって、はじめなる、内なる光りが共鳴するのである。

 神想観は観法である。 「観る」 とは既にあるからこそ成り立つのである。既に、はじめのはじめより在るものとは神によりてあるものである。それ故、観は 「生かされている」 という感謝のよろこびがその中身なのである。すでにはじめより在り、生かされていたということのよろこびが光りなのである。

 「光りは東方より」 とは 「光りは当方より」 である。内なる、はじめのはじめよりあるものを当方と言うのであり、当方なるものを光りと言うのである。

 「招神歌(かみよびうた)」 で 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」 と言ったとき.すでに、はじめなる、当方なる光りで祝福されているのである。それは、念想によって描く以前のすがたなのである。生かされていることが先で、それを観じ、感謝するのが神想観であり、生かす力が光りであり、光りになるための神想観ではないのである。 「なるための」 というものは、永遠に光りであることは出来ないのである。(1998.8.27)


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