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復興G
:2013/09/06(金) 06:31:37 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
七十九
何が光明化運動であるか。どうすることが光明化運動となるのであるか。そう問う前に 「今」 「自分」 「生長の家人類光明化運動」 が “ひとつ” であるということである。自分なる存在そのものが光明化運動そのものであるのであるから、
太陽が行けば、何処(どこ)も彼処(かしこ)も昼であるように、自分なるものが行けば何処も彼処も光明化運動ばかりなのである。
「光明化運動とはあなたのことであり、あなたのすべてが光明化運動なのです」
と言い切れているのがこのみ教えなのである。それ故、 「この運動に協力せよ」 ではないのである。
「あなたがますます、あなたらしく」
ということがあるばかりなのである。
「光明化運動は光明化運動らしく」
ということがあるのみでよいのである。
神は神らしくあるそのままであり給うのである。ただただ、天然、法然、自然、当然、本然であり、忽然(こつねん)忽然現成(げんじょう)あるのみなのである。忽然とは無原因ということである。
忽然なるものには歴史的背景などというものは無いのであり、要らないのである。
忽然の 「忽」 とは 「心に勿(なか)れ」 と書かれているのであり、非思量底であり、心によって認識投影された時間空間無きこと、現象無きことが忽然ということなのである。
「忽然忽然光明現成」 が生長の家人類光明化運動なのである。目無堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗って行われているのが生長の家人類光明化運動なのである。
「未(いま)だかつて實相を観たものは無いのである」 と大聖師のおコトバは鳴り響いているのである。それは幽の幽なるものであり、不可思議の不可思議なるものであり、妙(みょう)の妙なるものであり、みずからの消え切りの澄み切りであるからである。そして、その相(すがた)なるが故に、観るものと観られるものとの分離はなく、目無堅間である故に、観るということそのことが無いのである。それは自分そのものであるからなのである。
それと同じ意味において、 「未だかつて生長の家人類光明化運動そのものを観たものはないのである」 ということなのである。三界に身を現さざる澄み切りの光明であるからである。このような消息において、生長の家人類光明化運動はそれらしく、ということなのである。それ自身光明であるものにとっては、陰影も背景も要らないのである。
観じられることによって現れるという 「観じる」 という前景も要らないのである。忽然現成なのである。忽然忽然現成の純粋なる創造的持続が光明化運動の 「運動」 というものなのである。
これが 「生長の家人類光明化運動は生長の家人類光明化運動らしく」 という相(すがた)なのである。それはそれをそのまま生きている相(すがた)なのである。それを 「そのまま」 というのである。手段のための運動ではないということである。それ自身がそれ自身である運動ということである。
「……のための」 ということから解放されたよろこびとしての光りの運動なるものの消息である。これは現象人間のよくする相(すがた)ではなく、現象運動のよくする運動ではないということである。 「天より天降った火だ!!」 と大聖師が宣(の)り給うている實相なるものとしての火であり、光明ということである。世の常ならぬ運動とはこのことである。
「……のための運動」 ではなく 「運動それ自身」 の成就としての運動ということである。 「蕾(つぼみ)は花のためならず」 ということである。蕾が渾ての渾てなのであり、花はすべてのすべてなのである。渾ての渾てなるものの純粋なる持続あるのみである。(1998.9.17)
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