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195復興G:2013/12/12(木) 16:52:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十九

 「神癒祈願」 の申し込みの内容をどう観るか。神は如何に観じ給うていられるであろうか。イエス・キリストは、病者を前にして 「この病は誰の罪の結果ならんか」 と問う弟子たちに向かって 「神の栄光あらわれんがためなり」 と言い切っておられるのである。

 神の栄光はいずくにあらわれるのであるか。イエス・キリストの中に神の栄光はあるのである。それが更に更に輝きあらわれんがために、その栄光を祝福し、礼拝せんがためにイエスの前に天降り、あらわれられた観世音菩薩すなわち尽十方無礙光如来がイエスの前に立つ人であったのである。更にイエスにとって、そのように問うている弟子たちをも含めてすべてイエスの内なる栄光を祝福せんがためにあらわれた、それこそ神の栄光そのものであったのである。ただただ、すべては、イエスの内なる愛なるものの光りが更に更に輝きあらわれんがためであったのである。

 如何なる姿をとって現れ、如何なる姿になって行くかは、み心のままであって、イエスはそこに輝いている、實在の實相なる中身だけを観じつづけられていたのである。それが全托の姿ともなってい給うたのである。

 「み心の天に成るが如く、地にも成らせ給え」 とイエスは祈り給うていたであろう。また、「わが意をなさんとにはあらず、み心のごとくならせ給え」 と祈り給うていたであろう。

 しかしながら、このお姿は、そこに既に成っている天なる栄光を観給い、自分は既になく、み心のみが渾(すべ)ての渾てであり給う上に立ってのお姿であり給うたのである。

 神なる栄光のみが渾ての渾てなのである。神の栄光のみ独在なのである。

 「この地上に、不幸、災難があるのは、誰れの罪によるのか」

 との問いに対しても、やはり、

 「誰の罪にも非ず、神の栄光あらわれんがためなり」

 と言い切っているのが、生長の家なのである。即ち聖経 『甘露の法雨』

  此の世界に犯されたる罪もなく
  報いらるべき罪もなきことを教えよ。

 となっているのであり、

  善のみ唯一の實在

 とうたわれているのである。(これは決して同慈同悲の自然な心を無視せよ、ということではないのである。同慈同悲の自然な心こそ観世音菩薩の観世音菩薩たる輝きなのであり、神の栄光そのものなのである)

 ここにおいて、神癒祈願申込者の名簿なるものは、観世音菩薩の名簿であり、尽十方無礙光如来の名簿であり、生長の家の大神の名簿であるということになっているのである。それはそのまま、神なる栄光そのものであるということになっているのであり、それを表現、祝福して、人型はただただ 『實相円満』 とだけ書かれているのである。そして、祈らせて頂くものの内なる神なる栄光が更に更に生長、展開せんがために、天降り給うた名簿であるということになっていると拝察させて頂けるということは何という光栄なることであろう。

 ただただ為すべきことは、神の栄光そのものなる 「實相円満」 をひたすら、一体となって讃え、悦ぶことにある、という想いがつよくなるのを憶(おぼ)えるのである。

 實相円満を観じ、憶念することが全托ということなのである。

 神は如何に観給うか。神はただただ神ご自身を観給うのみなのである。(1998.11.16)


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